金沢放送局

1973年夏、夏休みで両親も含めて、家族で館山にでかけていた。「局に上がってこい」と言われて行ってみたら、金沢への転勤の内示だった。当時、ホンダライフという360ccの排気量の軽自動車に乗っていた。恭子はそれで小平市の緑成会という病院に通っていた。小金井から五日市街道で喜平橋まで行き、北上する。長男は病院内の保育園に預けるが、長女が小学校に入ったあとは、小金井まで戻って病院に連れてくるという毎日だったような気がする。

その軽自動車で金沢に行った。途中、名古屋の内池くんの家に泊まった。彼は僕の人生で唯一の友人で、

恭子の従兄である。東大の理Ⅰに現役で合格したが、安保闘争にのめり込み、留年したうえ、人気のない造船工学科に進学、実習で行った静岡県清水市の美保造船という500トンクラスの漁船を作る中堅か中小かの企業に就職した。既に4年生のとき中学時代の同級生(吾輩もクラスメイト)と結婚、子供ができた。

清水にいたとき、県立静岡薬科大学に通っていて静岡に下宿していた恭子が表敬訪問したそうだ。彼が仕事から帰ってきていなかったので待たせてもらった。そこに彼が帰ってきた。別の部屋で着替えるとき、奥さんに「あれは誰だ」と訊いたという。だから、恭子は彼が嫌いだった。子供の頃、お互いの母親の実家の福島の旧家で顔を合わせたときも、彼は蔵で本ばかり読んでいて、お高くとまっていたという。一年浪人して。吾輩も彼と同じ大学に入ったので、妻は僕も彼の同類だと見て敬遠しているように見える。彼は、美保造船にいた人に誘われて美保造船を飛び出し、三重県の四日市に同じような種類の造船所を作って、重役になった。住んでいたのは、名古屋の名古屋大学の正門の近くの家だった。

 当時は、太平洋岸と日本海沿岸を結ぶ高速道路はなく、大層時間がかかった。また、ホンダライフは長時間走ると、エンジンのリスタートができなくなった。

バッテリーがドロップするのでなく、スパークプラグ火花が出ないのかエンジンが掛からない。エンジンをスタートさせようとキーを右の人差し指で時計方向に力を入れて押し続けるため、第一関節のところに跡が付いてしまうほどだった。

 富山について、左折して国道8号線を走り、ようやく金沢に着いた。しかし、NHKの局舎が見つからず、お城の周りを何周も何周もした。当時はカーナビがなかった。本の地図しかなくて、自分が地図のどこにいるのか把握できなかった。

後に盛岡に赴任したとき、どんなに酔っ払って帰っても、水落しを忘れないように」と言われたのだが、金沢での金言は「弁当忘れても、傘忘れるな!!」だった。空が晴れているように見えても、あっという間に曇り雨模様になってしまう。男心か女心かどちらでもいいが、天気が変わるのにはまいった。放送部は10時からの勤務なので、野々市町の寮を早く出て午前8時頃から兼六園のコートでテニスをしたが、管理人が「今日は駄目だな!」というと、本当に雨になった。

 クラブは、金沢市役所、経済(商工会議所にクラブがあった)、県政クラブ。

 最初に担当した金沢市役所。県の人口120万のうち、1/3の40万が金沢市民だった。昔、四高があり、

北陸で一番の町で、建設省関係は新潟だったが、他のブロック官庁は揃っていた。高裁の支部もあった。

加賀百万石の城下町で、武士向けの東の廓、町民向けの西の廓、中間の主計町と、遊郭も3つあった。深窓の麗人も沢山いたはずだが、お目にかからなかった。

NHKの金沢放送局に勤務した人間は、和倉温泉の加賀屋に一万円で泊まれた。ボクの行く前に金沢放送局にいた菅家というディレクター(福島2区選出の代議士だった菅家喜六の息子)のおかげでNHKの職員にはサービスしてくれた。しかし、金沢局にいても東の廓に行った人間はあまり多くはなかったろう。ボクは、2回行った。『朱鷺の墓』という五木寛之の小説にも東の廓が出てくるが、五木夫人は金沢市長だった岡良一の娘であり、岡さんのところに夜回りに行ったとき、30前後の大新聞とNHKの記者の僕たちを連れて行ってくれたのである。京都でもそうだろうが、一見客は上がれないのである。もちろん、もともとの廓としての基本的なサービスはなく、酒を飲みながら、踊り、三味線、唄を鑑賞するだけだった。東の廓は武士の利用するところだったので、敵に襲われた際逃げられるように逃げるルートが有り、これですと解説してくれた。客も太鼓を叩くというのがここの特徴だった。金沢で宴会をしても、芸者を呼ぶことはご法度だった。花代をともかく、お返しに廓に行ってのまなくてはいけないので、その費用のほうが高いというのが理由である。もう一回は、亀岡高夫が建設大臣になり金沢に来たとき、奥田敬和が料亭で彼をもてなし、その席に呼ばれて、その後に行った。亀岡さんは別の席に行った。きっと、独りで金沢一の美妓のもてなしを受けていたに違いない。

これは美人だという人に、めったにおめにかからなかったものの、日銀金沢支店には何人かいた。正月3日に金沢発の全国放送で兼六園から生中継する、加賀友禅を着た若い女性を45人調達してくれと言われ、日銀の支店長に頼んで秘書課の女性行員の出演を斡旋してもらった。中継をプロデュースしたディレクターから感謝された。彼女たちとはテニスで交流し、プレゼントを交換したりした。その時もらったコーヒーカップをずっと愛用していたが、残念なことに数年前に落として壊れた。

 八台機屋やガチャマン景気という言葉もあり、経済の原稿は、繊維産業や繊維機械の景気がメインだった。

 市役所のクラブは、国会や省庁に比べて二段階下であり、のんびりしていた。11時半ころ広報の係が来て、金沢で今年はじめてのインフルエンザが発生しましたと発表した。ケチな話と思って相手にしなかったが、社のデスクに電話すると、「生ネタがないからすぐに送れ!!」という。慌てて毎日の立山くんという記者に要素を聞き、勧進帳(原稿を原稿用紙に書かないで、頭で作文して吹き込むこと)で電話送稿した。お昼のローカルニュースのトップだった。教えてくれた毎日の記者は、ボクを“NHKの天下国家記者”とからかった。「インフルエンザの患者が一人や二人出たといっても天下国家には関係ない」と、会見が始まるときに発言したらしいのである。

 市長選挙か市議会議員選挙かの時に立候補予定者がクラブに来た。「第2次世界末期にソ連が急遽宣戦布告して満州や樺太で邦人が陵辱された、露助はカツレオオカミだ」と悲憤慷慨していた。ホームレスのような風体で泡沫候補間違いなしだったので、脅したりすかしたりして(供託金没収のことも教えたかもしれない)、立候補を食い止めた。被選挙権は基本的な権利であり、許されない行為だが、あまりにも品位のない立候補予定者だった。

市役所の広報係の案内で輪島に釣りに行ったことがある。日本海に舟で出て、タイを狙ったが、全く釣れない。舟によってしまって、ともで寝転んで星を見ていた。立山くんの奥さんも一緒に行ったが、彼女もよい、同時に反対側の舷側のともで寝転んだ。二人とも吐くほどには酔わなかった。

 朝日の川西くんと読売の岡田くんと三人で加賀宝生の職分(プロ)に謡を習った。昼は県教委の庶務係長だが、プロの能楽師で兼六園の近くにあった能楽堂の一室で稽古した。

最初に先生が私について一緒に声を出してくださいと言って、「うぅー……」と腹の底から声を出した。天真爛漫で永遠の少年の川西くんが思わずプッと吹き出した。釣られて先生まで大笑い。最初は橋弁慶、紅葉狩もやったし、結婚式でやれるようにと高砂やの一節も教えてくれた。そのうち、能楽堂は使えなくなって、先生の家に行って習った。小習いという免状も貰ったが、いつのまにかやめてしまった。

 能登は石川2区だった。政治部で持っていた派閥の稲村左近四郎は羽咋に家があった。一度家に行ったら車代と言って2万円よこした。これをもらうとクビになると言って返したら、カネを受け取らないのは、朝日と君だけだと言った。国会議員につっかえししたら失礼だという気持ちの記者が多いのだろう。こちらは議員といっても、ちっぽけな奴と思っているので、貰ったら沽券に関わるのである。政治部のときも大野明という伴睦の四男で顔が一番似ているので後継者になったという代議士から仕立て代付きの背広生地を貰ったが、返した。

 石川2区はもともと益谷秀次という大物もいた保守王国。七尾には宏池会の瓦力、穴水には三木派の坂本三十次がいた。瓦さんの家に泊まったことがある。女の子が三人生まれ、スリーボールノーストライク、加藤紘一はツーボールのあとワンストライクだと言っていたような気がする。彼の支持者で土建関係の人が「工事を受注しても、建設局からスタートの合図がなかなか来ないので、探ってみると、稲村左近のところに挨拶に行かないから役所が止めている。工事代金の何分の一かを持っていって挨拶しないといけないので困る」言ってきたそうだ。左近さんはその後、繊維不況の対策に絡んで汚職の疑いが浮上し、検挙された。

 県政クラブを担当している時は、中西陽一という知事にからかわれた。政治部にいないので腕がなるだろうというのである。知事室にはあまり行かなかったが、彼の方がよくクラブに遊びに来た。地元紙よりも中央紙やNHKの方が話しやすい。もともと昭和17年内務省採用の国家公務員である。京都の出身で、石川の政界ではお公家さんのように見る人もいた。彼だって中央で活躍したいのに人口120万の県でくすぶっているという気持ちがあったのかな。知事公舎に何回か行った。カセットテープを出してきて、歌謡曲を一緒に歌った。カラオケのようなことをやっていた。先見の明があった。学徒動員で主計将校になり中国で終戦を迎えたという。引き揚げのとき貨車で港に向かったが、女性は下車して小用をすると列車が発車してしまい現地に残された人もいたと淡々と話していた。

赴任したとき無料だった兼六園を彼が有料にした。

クラブに来たとき、好きなとき自由で入れる兼六園あっての金沢であり、絶対有料にすべきでないと主張したが、きいてもらえなかった。

金沢市長の岡良一は精神科の医者だが、軍医といて中国にいて、従軍慰安婦の梅毒検査が主な仕事だったということだった。「朝鮮人が痛い痛いと行ってぴーぴー泣くんだ」と言っていたような気がする。重要な話でないと聞き流したので、よく覚えていない。

 厚生大臣が金沢に来て、たまたま幹事社だった北國新聞とNHKだけが記者会見に出た。医療費改定の部分を後輩記者に書かせて、だいぶ手直しし東京に送って全国放送された。会見に出なかった他の社からだいぶ文句が出た。

 県が予算案を編成すると発表の前に地元紙に出た。案がまとまると政党に内示するのでそこで取るのだった。敵は自民党から取材していた。県は大臣折衝のように自民党に説明し、そこで出た意見を踏まえて修正し、それを社会党に説明していた。事前にアポを取ったうえ、社会党の書記長に取材して、朝のニュースに入れた。北國新聞の朝刊と違って実際の予算案の金額と同じだった。ちょっと知恵を絞っただけだった。

 寮のあった野々市は放送のアンテアの敷地で、原野のようなスペースがあった。照明用のライトを何本か放送局から持ってきて、夏の夜パーティーを開いた。

金沢大学出身のアナウンサーがいて、四高の寮歌を朗々とフルコーラスで歌った。『北の都に』『南下軍の歌』、よくあんな長い歌を覚えていたものだ。

 平家にあらずんば人にあらず、政治部にあらずんば職場ではあらず。ふてくされて真面目に働かなかった。

 東京にいたとき、テニスを始めたがちっともうまくならなかった。金沢でテニススクールに2期連続して通った。少しフォアは打てるようになった。

 県庁などには記者クラブ用の駐車スペースがあり、車で通った。中古で日産ブルーバードUの電子制御エンジンの車だった。エンジンは掛かったが、冬に

吹き溜まりに突っ込むと、エンジンルームが雪の塊の上に乗って、前進後退を繰り返しても脱出できなくなり、トランクに入れてあるスコップで雪を取り除かなくてはいけなかった。雪の上で動かなくなると亀が甲羅の下を固定されて、手足をばたばたさせているような感じだった。

 金沢には妙立寺という寺があった。忍者寺である。伊賀や甲賀の忍者屋敷と違って、地下で金沢城とつながっていると言われ、親藩の福井から敵が攻めてきたときいち早く情報をキャッチするための前線基地だった。加賀百万石といえば聞こえはいいが、所詮外様大名であり、取り潰されないか、じぃっと息を潜めて数百年過ごしてきた。今でも中央政府に対して警戒心と対抗意識があったのだろう。それは仮面の下に隠されていた。でも、忍者寺が立ち位置を見事に物語っていたのである。観光するにはいいが、住むところではない。京都と同じである。まあ、心を開いてくれる人を見つけようと努力しなかった怠慢さのいいわけだけど……