誕生

 私は、1939年11月29日、福島県福島市で長男として生まれた。福島市は県庁所在地であるが、長方形の形をした県のかなり北に偏ったところにあり、私の印象では、経済的に見て、決して活気のある街ではなかった。なぜ県庁が置かれたのか、三島通庸元県令にでも聞いてみる必要があるが、どうせ藩閥政府の思惑が働いていたのだろう。もっとも、かつては、養蚕が重要な産業であり、福島は絹織物の集散地として重要な位置を占めて、日銀の支店まで置かれたほどだったので、そうした要素も無視できない。

とにかく、関西などに比べて、“歴史”がなかった。戊辰戦争における賊軍である東北のかなりの藩は、歴史が抹殺されてしまったのだろう。白河以北一山百文とは、よく言ったものである。後年、就職して、九州の大分に赴任した際に、初年兵で回る警察では、「出身地が福島です」というと、どの階級の警察官も「会津か。会津は維新の戦争の時にがんばった。立派だった」というので閉口した。「白虎隊から、何年たっているのか。福島といっても、広い。中通りと、山通りは、天候だって、言葉だって、微妙に違うのに……」と言い返したくなったものだ。ほかに太平洋に面した浜通りがあり、ここに東京電力の原子力発電所が作られた。

両親 

 母親は、福島の特定郵便局の局長の次女で、とても、頭のよかった人だった。女学校でずっと級長をさせられていたので、そろそろ級長を辞めたいものだと思って、わざと学校を休んだが、出て行ってみると、やっぱり級長にさせられてしまったそうだ。優等生らしく、他人の悪口は言わず、その長所のみをみるようにしていた。天の邪鬼の当方は、他人の欠点は、チリのように小さくともよくみえ、自分の欠点は、丸太のように大きくとも、みえない。 

 母親のきょうだいは3人で、その子供の合計は、10人。母方のいとこは、ほとんどが福島に住んでいる。母方の祖父は、福島の銀座通りのような所に店を構えていた大きな宝石店の次男坊で、母方の祖母の家は、保原町の味噌醤油の大きな問屋だった。両方とも、今はない。祖父は、兄が店を継いだので、特定郵便局の局長をしていた。

 父親は、東京麻布生まれだが、厚生省に入ったあと、福島県庁の衛生部に転勤して、そのまま、福島に居着いた。母と見合いをして結婚し、昭和14年に小生が生まれた。父のきょうだいは、母よりも多い。父方のいとこは11人。ほとんどは東京に住んでいる。父親は三男だが、龍太郎という名前だった。酉年で辰には関係がない。都知事をした東龍太郎という人も居た。からは知らないが、父の龍はさんの字でなく、カタカナのテの龍だった。我が輩は卯年の生まれだが、龍義という名である。自民党の幹事長もした加藤紘一君は「八紘一宇」からとった名前だろう。一生、皇国思想の臭いがついて回る。それに比べると、軍国主義の中で強くて正しいという抽象的なプラス価値のニュアンスで迷惑したとの気持ちはない。

 父は、座談がうまく、話が面白かった。腹を抱えて笑わせることも、しばしばだった。大体は、正直に書くが、多少誇張したり、ユーモアらしきものを交えたりするのは、父から受け継いだ正か負の遺産かもしれない。

誕生 

  小生は、母が実家に帰って産んだ。当時女学校に通っていた母の妹は、「学校から帰ったら家におしめが干してあったので、ビックリした」と言っていた。また、この家にいたときに、ボクがセルロイドのおもちゃを火鉢の火に落としてしまい、ボッと燃え上がったので、小生の髪の毛がほとんど燃えてしまったそうだ。そのあとに茶色のちりぢりの毛が生えてきたので、「まるで、西洋漫画のようだった」と叔父は述懐していた。

 

 

幼年時代  

 幼年時代の思い出は、ほとんどない。5歳くらいまで、母の実家の近くの宮下町というところに住んでいた。そのころ、家の近くの幼稚園に通っていた。そのときに覚えているのは、二つだけである。一つは、滑り台の上の所に上がるのが好きで、そこから、吾妻山が見えるとして、ご機嫌だった。ところが、ある日その上の台から、地面に落ちたことがある。たいぶ泣いたような気がするが、今でも生きているところをみると,たいしたことはなかったようだ。もう一つは、長男でかわいがられていたために、毎日お弁当に卵焼きを入れてくれていた。ところが、毎日なので飽きてしまい、他のこのきんぴらゴボウと交換したりしていた。母親には、申し訳ないことをしたと思っている。子の思う心に勝るのが親心なのであり、本当に親心は大変なものである。自分も親になると分かるのだが。

  小学校に入る前だと思うが、父が出張で、ボクを連れて上京し、天沼の姉の嫁した家に泊まっていたことがあったらしい。父の姉は、後年、「夕方になるとタッちゃんは、お父さんが恋しくなって、泣き出すので、私がタッちゃんを抱いて、あそこのたばこ屋さんまで行って、『ほうら、あっちの方から、お父さんが帰ってくるよ』と言って慰めたものよ」と、何回も何回も言った。

 当家の墓は東京立川にある。真ん中の弟が戦前、丹毒にかかって生後数ヶ月で亡くなり、納骨するときに、小さいのだから弟の骨壺をお墓の穴の中に入れるようにと白羽の矢が立った。しかし、どうしても言うことを聞かなかったそうだ。自分も、この穴の中に永遠に閉じこめられてしまうのではないかと、まざまざと想像したような気がする。仏壇の過去帳を見ると、昭和19年8月のことである。4歳の身で、アイーダがそばにいるわけでもないのに、閉じこめられてしまうのでは、たまらない。死への恐怖を感じるのは、小学校の3年か4年くらいからだが、その萌芽が幼児期にもあったのだ。

 

小学校

桑折

福島も空襲があるのではないかと、東北線の列車で仙台方面に3駅行ったころの桑折に疎開した。母の父方の従姉が大きな金物店の娘で、婿を取っていた。広い敷地内にある隠居用の離れを借りたのである。小学校に入る直前だった。
 伊達郡桑折町は、小学校入学直前から小学校2年の冬休みまで過ごした町である。郡役所の跡があったような気がする。福島市から見て、瀬上、伊達、桑折、藤田と続く町の一つだった。諏訪神社という神社があって、秋のお祭りの時には、福島に引っ越した後も、何回か疎開したときに家を借りた金物店に遊びに行った。そして必ずお小遣いをもらった。お祭りでは、どぎつい色のアイスキャンデーを売っていた。また、何を売るのが目的だったのかは分からなかったが、口上で干支と人間の運命との関係を説明する香具師がいた。何回かのお祭りで見た。「子年生まれはケチだ。一旦自分のものになると、口の中のつばさえ、出そうとしない。丑年生まれは晩年が不幸だ、今の天皇陛下もそうだ」という部分が印象に残っている。8歳下の弟が、幼い私にはドケチと映っていて、それが子年だったから。自分は卯年生まれだが、卯年生まれの人のコメントは記憶にない。
 とにかく必ず、小遣いをもらえるのは、なによりも楽しみだったが、バスで帰ってくるとき、乗り物酔いをするので、大変だった。福島の上町というところに、バスのターミナルがあって、そこに降りたとたんに、我慢しきれず吐いたこともあった。排気ガスのせいか、揺れのせいなのか、いずれにしても、つらい代償だった。乗り物酔いを克服したのは、自分でも車を運転するようになったからである。
 小生が入学したのは、譲芳小学校という町立の小学校である。昭和21年4月の入学で、生まれは、戦前だが、終戦後の一期生であり、"戦後民主主義"の申し子だと自分では思っている。幼稚園の時、「大きくなったら、大将になる」と口にしていたような気がするが、学校は、明治憲法的なイデオロギーは払拭されていた。校庭には、二宮金次郎の像や奉安殿は残っていたが......。昭和38年、赴任して大分に行ったとき、4~5歳年長のある先輩は、「これまででもっともショックだったのは、教科書に墨を塗らされたことだ。そして、今までと正反対のことを教えられたことだ」と終戦を転換期とする価値の180度の転換について、述懐したものだ。小生は、教科書の墨塗りは経験していない。配られた教科書はセーフだった。しかし、その教科書は、新聞紙のように大きな紙のままで配られ、各自が切って綴じるのだが、日本人離れしていると評されるほど不器用な小生の場合は、切った部分がギザギザになってしまい、そんな教科書を授業の度に開くのが、恥ずかしくてたまらなかった。
 1年の時、または1年2年を通して、油井鈴恵という女の先生が担任だった。厳しいところもある先生で、何かで叱られ、冬雪が積もっているときに、外にみんなで出されたことがあった。
 いつも、はしゃいでばかり居た小生は、あるとき、学芸会の演劇の役者に選ばれた。演目は、「みにくいアヒルの子」。3年生か4年生の女の子が主役を務めたが、きれいな子だった。当方は、いじめっ子の一人で、今で思えば、大きくなっても白鳥にはならない、ホンモノのアヒルの子だった。地でやればよかったので、苦労はしなかった。みにくいアヒルの子の心情を表すのに、ピアノかオルガンで弾いたのか、シューマンのトロイメロイとサンサーンスの白鳥が舞台に流れた。二つの曲は、胎教のようにわが輩の心に刷り込まれてしまった。わが輩が、野田秀樹か三谷幸喜にでもなってい

れば、伝記で特筆大書すべきエポックなのだが、その後演劇部に入ることもなくて、言及する必然性はない。それにしても、ひなにはまれな素敵な女の子だった。大森という姓だったような気もするが、あれが初恋なのか。
 焼け跡派という言葉があるのかもしれないが、終戦直後は、本当に食べるものがなかった。母が着物などを持って農家を回り、農作物を分けてもらってきた。このことだけでも、親の恩は、山よりも高く、海よりも深いと言わねばならぬ。自分の食べる分は我慢しても、子供に回してくれた。ある時、子供達には麦ご飯を食べさせ、自分は煮た小麦ばかり食べて、おなかをこわしたことがある。それでも、母は平然としていた。
 学校で遠足に行くときには、道路脇をよく見ながら行ったものだ。みそ汁の実になるような種類の草だと、それを引っこ抜いて、持って帰った。近くの畑の野菜をかっぱらったりしたこともある。米びつの中のコメを生でかじったり、みそをそのまま食べたりして、たいそう怒られた記憶もある。あんな時代を、よく生き延びたものだ。孫が、ご飯をふざけながら食べたりしているのを見ると、ふっと食べ物のなかったあのころを思い出す。それを言っても、どうせ分かってはもらえないだろうと思いながら。
 当時は、Oさんの屋敷の西側の道路がメインストリートだった。国道4号線だったのだろう。福島の方から仙台の方へ進駐軍の兵士を乗せた車列がよく通った。カーキ色のウイリスジープ。いつかは、僕もあんな車に乗りたいが、無理だろうなと思いながら、アメリカの物質文明に憧れの気持ち抱いていた。小学生の頃、上京して桜田門の辺りを歩いていた。警視庁の向かい側だ。GIの乗った車が通り、アメリカ人たちは8ミリか9ミリのムービーカメラで占領下のTOKYOの街の風景を撮影していた。その時にも、「ボクは一生車やムービーカメラには手が届かないだろうな」と思ったものである。スチールカメラは父も持っていたので、スチールカメラが欲しいとは、考えなかった。
 今の車は、8台目か9台目、ムービーカメラは、8ミリフイルムを入れれば、4台目か5台目である。日本の高度成長で、叶わぬ望みと思っていたものが、実現してしまった。

福島 その1

 小学校の2年生の3学期から、福島市に引っ越して、福島女子師範附属小学校に入った。住んだ家は、母の姉が嫁した家の沢山ある貸家の一つで、二軒長屋だった。隣の住人は、附属小学校の教諭だった。怖い感じの人で、あまり好きではなかったが、亡くなる前の父が教えてくれたところでは、わが輩にとっての大恩人だった。それによると、小生が附属小学校の編入試験を受けた際、成績はめちゃめちゃだったが、ボクを落とすと教諭がその貸家に居づらくなるだろうと、仕方なくパスさせたとのことである。こちらは、井の中の蛙で、できるつもりでいたが、やはり田舎の学校のレベルは低かったのだろう。
 福島に引っ越した後だったが、母が、「もう、『ぼうや』と呼ぶのは、やめにしよう」と宣言した。長子のボクは、両親にとても可愛がられていた。くすぐったいほどだった。加藤某女が、自分の娘を「お嬢」と呼んでいたようなものである。
 ボクの場合、自分の長子を、両親と同程度に可愛がっただろうか。心の中はともかく、それを経済的な面などで具現化するという点では、どうだったのだろう。母親の愛情の深さは、あの日の宣言に、はっきりと具現されている。
 附属小学校は、「フゾク、フベンキョウ」といって、夏休みや冬休みは、市立より早く始まり、遅く終わった。成績のよい、金持ちの子が集まっていた。その後、附属中学校に進み、県立福島高校の入試を受けたが、附属中学校で中くらいの成績なら、悠々パスできたので、全然心配しなかった。これというのも、附属小学校に編入できたおかげなのである。もし、このときに、附属小学校に入っていなければ、東京の大学に進む事なんて、全く考えなかったかもしれない。
 市内に一つしかない国立の学校とあって、家からはかなり離れていた。小学校は付属中学校と同じ敷地にあって家から徒歩で25分か30分かかった。小学校の時か、中学校の時か、一緒に帰る5~6人とじゃんけんをして、勝った方が交差点で好きな方向に進むというやり方で帰宅したことがある。旧市内をぐるぐる回って、かなり遠回りして帰る羽目になり、まっすぐ帰るときの何倍もの時間がかかった。
 また、弱いものいじめは、特技の一つで、そのころまだ、馬が荷車を引いて走っていたが、馬糞を拾って同級生の女の子に投げつけ、"びっくりすると、背が高くなるよ"などと、真面目な顔で言って、恩に着せたりしたものだ。同級会で、旧悪を告白した際、「あんたなら、やりかねないわね」と言う女性が居ても、「私がやられた」という人はなかった。何年か前に亡くなった、呉服屋の娘だったかもしれない。そこのうちに遊びに行って、同級生のその子を柱に縛り付け、首に縄をかけて引っ張って、絞首刑だなんて言って、その子のお兄さん達から、すごく叱られた。その後、彼女のお姉さんが、母の従弟と結婚していることが判明した。100歳でなくなった母の叔母に会いに母の従弟の家を訪ねた際、そのお姉さんに謝っておいた。幽明世界を異にする高野恒子ちゃんには、謝ろうにも、謝れないからである。昭和23~24年頃のことだと思うが、巣鴨プリズンでのA級戦犯の処刑が念頭にあったのだろうか。素敵な女の子への"慕情"のなせる業だったのかもしれない。
  いたずらといえば、祖父の家に行って自転車のペダルを持って、ぐるぐる回したことがある。ところが、そのうちにぐるぐる車輪が回っているときにカギをかけたらどうなるかを確かめたいという気持ちが抑えられなくなった。そこで、かなり強い勢いで車輪を回した後、さっとカギを押した。すると、ばりばりと大きな音がしてスポークが4~5本折れてしまった。これに気づいた祖父は、ボクを強く叱責した。この日は、泣きながら家に帰ったが、最後までこの祖父は嫌いだった。祖母の葬式には出たが、祖父の葬式は記憶がない。九州にいたときに亡くなったからなのかもしれない。 
 父方の祖父・祖母は生まれる前に亡くなって一切知らない。母方の祖父は特定郵便局の局長を退職後、よくオイカワ釣りをしていた。その釣りに連れて行ってもらったことはない。最初に生まれた男の孫なのに、かわいがってもらった記憶はない。外孫だったからだろうか。この祖父との間に、こんなアクシデントが起きなければよかったのだが......。とにかく、ボクは孫だけは絶対に叱らないことにしよう。死んだ後まで恨まれてはかなわない。
 祖母は、福島女学校の出身で、長沼智恵子→高村智恵子は先輩だった。家に遊びに行くと食パンを焼いてバターを付けてくれた。家でパンを食べるときには、マーガリンしかつけなかったので、本物のバターのよい香りが、今でも鼻の奥に残っている。また、祖父母の家にはチーズもあった。あのチーズの味も懐かしい。
 小生もかなり年を取ってから行われた祖母の葬式では、写真を投影しながら故人を紹介するアナウンスで「花も恥じらう十何歳で**(祖父の姓)氏と結婚し」というフレーズがあった。年を取ってからの姿しか知らない小生は、おかしくておかしくて、吹き出しそうになり、大変に困った。喪主をつとめる叔父は、新聞記者出身であり、ハードボイルドな文章が似合うのに、どうして文章をチェックしなかったのかなといぶかしく思った。
 よく、肉屋にお使いに行かされた。「50」という数字を豚の細切れを買うときに、叫んだ記憶がある。グラムでは少なすぎるので、匁だったのだろうか。父は遅く帰ってくるとして、母と3人の子で、乾麺をゆでて、野菜や肉を入れて夕食にしたものだ。油を入れたりもした。味のないご飯(麦飯だったかもしれない)より、うどんの方がずっと好きだった。今でも、時々食べてみたいと思うが、味を再現できない。
 父親は、仕事の関係で県内によく出張し、仲のよい知り合いが多かった。三春というところにそうした知り合いがあり、小生も何回か遊びに行ったことがある。あるとき、小学校の低学年の頃だったか、汽車に乗って一人で行った。いつものように大歓迎を受け、帰りに野菜を沢山おみやげにくれた。終戦直後で食料の乏しかった頃で、貴重品だった。ところが、小さい小生には、そのおみやげを風呂敷か何かで包んで手にぶら下げるか、肩に担いだか覚えていないが、三春駅まで行く途中に、人家のないところで、"どうしてボクがこんな重いものを持っていなければならないのか"という疑問の念がむくむくと湧いてきた。そして、この荷物がなければ、どんなに清々するだろう、自由に身になるのだという想いを禁じえなくなった。そこで、峠を越えるときに、人目がなかったのを利用し、道の脇にカボチャなどだったと思うが、おみやげの野菜を全部捨てた。一部を残すと叱られると思った。磐越東線で三春から郡山に出て、東北線で福島まで帰ってきた。そして、何も報告しなかった。ところが、しばらくすると、おみやげを託されたことが親にばれてしまった。ものを粗末にすることは許されないし、お礼を言わねばならないのに、それができなかったのは、人の道に外れるというわけで、大層叱られた。世間の常識にとらわれることなく、自分の運命を自分で決める際には、清水の舞台から飛び降りるように積極果敢に信ずる道を選ぼうという姿勢があったのだと言えば、ちょっとオーバーだろうか。今でも、買い物に行って、買いすぎたりして荷物が重くなると、いっそ少し捨てちゃおうかという気になる。「こどものときから、ちっともかわっていないな」と、つい苦笑してしまう。
 父親の兄弟が東京に住んでいて、夏休みなどによく遊びに来た。急行で7時間、鈍行で8時間かかった汽車の旅だったが、一人で来たこともあったのかもしれない。赤羽の板橋区に近いの高台にあった伯母の家に泊めてもらうことが多かった。怖い伯母だった。  
 電話交換手として逓信省(?)につとめ、判任官にまでなったと聞いたような気がする。ということは、ある程度の年齢になるまで働き、結婚も遅かったということで、東京都の交通局に勤めていた伯父さんと結婚したのだが、子供はできなかった。威勢のいい人で、こちらに落ち度があると、ばしばし叱られた。同じ赤羽の京浜東北線の駅の近くには戦争未亡人の叔母さんが住んでいた。夫は戦死、遺骨が入っているという骨壺が届いたので空けてみたら、石が一つ入っていただけだったという。一人息子は、ぼくより4~5歳若い。叔母さん婚家は、元はお店屋さんで砂糖の入った大きな壺が沢山あった。それが、時間の経過のせいなのか、下町の空襲の余波なのか、中の砂糖がすっかり溶けてシロップのようになっていた。砂糖は貴重品の時代であり、その溶けた砂糖をすくってなめさせてもらった時には、ほっぺたが落ちるような気がするほど、おいしかった。叔母さんの一人息子である従弟は、僕を荒川に連れて行ってくれた。そこにアメリカザリガニが居て、具体的にどういう方法でしたのかは、思い出せないが、捕って遊んだ。アメリカと名が付くザリガニなど初耳で、食べられはしないのだが、福島にはない最新流行の事をしているような気がして得意だった。赤羽の高台にあった伯母の家に泊まったときは、紙芝居屋のソースせんべいを買って食べた。これも福島にはなかった。東京は天国だった。上野には浮浪児がおり、駅の地下道にはホームレスが、新宿駅の東口には暴力団風の人がいた。
 天沼の伯母の家に泊まったときには、2歳上の従兄によく遊んでもらった。4人兄弟の末子の彼は、短期間だが、疎開で桑折に来ていた。荻窪も、B29がたびたび来襲したので、四人の息子のうち一人くらい生き延びられるようにと算段をしたのか、他の息子も信州などに疎開していたのか、そこまでは聞いていない。一緒に住まわせて貰ったので、彼は、僕の一家に、ちょっと義理を感じていたのかもしれないが、ボクがあまりに天真爛漫なわがまま振りを発揮するので、辟易しているのが幼心にも見て取れた。
 天沼の家の近くの熊野神社に行ってセミ取りをした。2歳上の従兄は入り口が小さく、奥行きのある網を使い、実に巧みに蝉を捕まえた。福島にいると、店で売っている広口の網を使って取るのだが、一匹も捕まえたことがないので、その従兄の器用さに感動した。
 ある朝、「昨日はすごかったね」といわれた。何かと思ったら、蝉が羽化するのを観察したというのだ。夜中に羽化が始まったので、ボクを起こして、一緒に観察したという。所が、当方は一切夜中のことは思い出せない。その後、眠ったら忘れてしまったのだ。思い出せないので、「絶対に見ていない」と押し通した。そんなところは、子供の時から頑固だったようだ。
 武蔵境からの西武線で是政に行って、上石原の砂利採取の後の穴でヘラブナ釣りをさせてもらったこともある。20センチほどのヘラを一匹釣って喜んでいたら、あとでその従兄に叱られた。「ヘラというのは、群れているのだから、一匹釣ったら、もっと沢山あげなくちゃ駄目なんだよ」と。福島では、ヘラブナなんて知らなかった。その僕が釣ったのだから、ほめてくれてもいいのに、これならむしろ釣れない方がよかったと思った。吉祥寺は荻窪から2つ先で近いので、井の頭公園にもよく連れてきてもらった。舳先が横から見て丸い形をしたボートがあったような気がする。それも、福島では見たことがないしゃれたものだった。東京への憧れは、心の隅々まで浸透し、福島に帰ると赤羽の家などでは聞こえる省線電車の音が聞こえないので寂しいと思うのだった(省線電車とは、その後の国電、いまのJRの電車のことである)。福島では当時は汽車が走っていた。車輪がレールの継ぎ目を通過するときのゴトンゴトンという音や風切り音は似てるのだろうが、SLの出す音は、電車とは明らかに違う。列車と違ってしょっちゅう聞こえてくる電車の音は、僕にとっては大都会の象徴だった。時刻表を見なくても、何分おきかに、次々に来る電車は、東京にいると利用できるので、自分にとっても誇りのように思えた。
 福島の家は、矢剣町というところにあった。家の近くに朝鮮人が住んでいた。正確な国籍や、連行の事実があるのかどうか、法的地位などは知らないが、古い鉄や銅などを集めてくるのが仕事だった。酒乱で、子供をどんどん作り、怖い存在だった。ところが、ある段階から、すっかりおとなしくなった。創価学会に入信したのである。矢剣会館という広間のある会館がすぐそばにあったが、そこで開かれる創価学会の集会などに熱心に参加する姿が見られた。へそ曲がりのボクは、あんな乱暴な男を借りてきた猫のようにおとなしくさせてしまう"学会"に警戒心を抱いた。我が家の宗派は、本門仏立宗といって、日蓮宗の流れの比較的新しいものらしい。ある意味で創価学会に似ている立場である。ある夜、折伏の人たちが5~6人押しかけてきて、家の裏から上がり込み、父に"学会"に入るよう要求した。そんな風にいじめるように見える大人達が憎らしく、責め立てられる父が可哀想だった。もし国会議員や大臣にしてくれるといっても、創価学会だけは、ごめんだというのは、矢剣町での二つの事件のせいである。大学の教養学部の同級生に、当時から入信していた間瀬という人がいて、その後、聖教新聞の編集をしたり、副会長の一人になったりした。ある時の参議院選挙で、東京選挙区から立候補した公明党の候補に投票してくれと電話してきたが、話しているうちに腹が立ってきて、けんか腰になってしまった。
 矢剣町の家の前に、小林一郎君という子がいた。同学年だが、彼は地元の市立小学校に通っていた。学校から帰ると、彼に連れられて、須川という川の向こうにある田んぼに行き、水田の間を流れる小さな小川に入って、魚を網で捕まえた。八木田とか方木田という地名で今ではすっかり住宅地になっているが、当時は水田地帯で、小魚が生息していた。網でモロコやフナ、ドジョウが捕れた。モロコはすぐに死んでしまうので、フナをとると大喜びだった。家の裏に置いた古いオケに水を張って、魚を生かしておいた。一郎君は器用で、上手に魚を捕ったが、ボクは不器用で下手だった。網を手でもって、足で魚を追い込むのだが、その時の足が網を蹴ってしまい、魚が吃驚して逃げ出してしまうのだろうというのが彼の見立てだった。
 須川は上流に鉱山の排水でも流れ込むのか、魚が住んでいなかった。先日新幹線の窓から釣りをしている人を見たので吃驚した。
 ブラックバスかブルーギルでも放した奴が居るのだろうか。魚が居ない代わり、夏はプールの代わりになった。浅くて、あまり危険はなかったが、一カ所ちょっと背の立たないところがあって、溺れかけたことが何回かある。又、ある夏泳げるのが嬉しくて、思い切ってアタマから飛び込んだら、水面から50~60センチの所にとがった石があり、まともにアタマがぶつかった。これで死ぬのかと思ったら、長さ2・3センチ切って、血が出ただけで助かった。
 矢剣町の家には、電話も風呂もなかった。風呂は銭湯に行った。ある時、よく知らない人が風呂の中でボクに言った。「法務大臣になって、世の中をよくしてくれ」と。法務省は、民法、刑法、商法などを所管しているが、この人は、法律は全部法務省が所管していると誤解し、法務大臣がよい法律を作らない限り、世の中はよくならないと思っていたのだろう。ボクは、法務省の記者クラブを1年間担当したことはあるが、法務大臣にはならなかった。ボクの顔がそんなに利発に見えたのだろうか。優がある程度あれば、各方面に顔の利く官庁に入り、早めに退職して福島1区から出馬する可能性が、ないでもなかった。と考えると、彼の頼みも、絶対にありえないことだったとは言い切れないといえば、うぬぼれ過ぎというものか。この銭湯では、何とも鋭い目つきをした暗い雰囲気の男と、よく顔を合わせた。誰かに、終戦前は憲兵だったと聞いた。特高とともに思想弾圧の先兵だった怖い存在。いかにも、それらしい雰囲気を漂わせていたが、本人に聞いたわけではないので、本当だったという保証はない。後年、大学を出て就職し、NHKの地方研修の局が偶然福島になった。記者・ディレクター・アナ・技術の新人は、こき使われて、不満がたまっていたが、慰労の意味で、最後の日は宿を飯坂温泉にとって貰った。そのとき、ぽん引きをしていた人の顔に見覚えがあった。この、元憲兵氏だった。昔は、庶民に対して威張っていただろうに、ポンビキにまで落ちぶれて、卑屈なほほえみを浮かべているような気がして、気の毒に思った。ストリップ小屋だったと思うが、だからといって、その小屋に入るということはなかった。
戦争が終わって18年経っていた。他の新人にも、その人の秘密はしゃべらなかった。鋭い目つきと暗い顔は、何年たっても、忘れられないほど、ボクの網膜に焼き付いていた。
 "雨が降ります、雨が降る"という歌がある。"遊びに行きたし傘はなし"というのだが、「遊びに生きたしカネはなし」だねと冗談を言ったら、「母が本当にそうだね」余りにも真面目に受け止めたので、吃驚した。大きな商家に嫁いだ母の姉と妹は、舅姑がいたが、資産もあり、商売をしていた。私の父の両親は母と結婚する前に亡くなっており、舅姑に遠慮する必要はなかったものの、県庁の中級職員では、月給が安く、やりくりが苦しかった。
 母の想い出としては、あるとき、自分もいつかは死ぬことを考えて、居ても立っても居られなくなり、針仕事をしていた母に打ち明けたら、「人間はみんな死ぬのだから、仕方がない」とポツンと言った。そのとき、ボクは、芥川の『河童』の話は知らなかった。「どうして生まれる前に、この世に出てくるかどうかをボクに聞いてくれなかったの」と聞くことはできなかった。知っていても聞かなかっただろうと思う。ヒトの出生のメカニズムも分かってしまっていただろうから。

福島 その2

 小学校の4年に進級する際に、女子師範と男子師範が統合されて、福島大学学芸学部附属小学校になった。校舎は女子師範の時のままだったが、児童の数とクラスの数が2倍に増えた。4組まであって、クラスの構成は、4年から6年までクラスの構成は一緒だったらしい。4年の時には、脇坂ウタという女性の教諭だった。半世紀後にクラス会で会って、色々話しているうちに、小生より一学年下の妻が男子付属に通っていた際に、脇坂先生が担任だったことが分かった。それが分かっていれば、結婚式に招待すればよかった(妻は父親の急逝でまもなく転校し、私は小学時代の妻には会っていない)。教職在職中に何人の児童を担任として持ったのかはしらないが、よくそんな名前を記憶しているものだ。「とても、しっかりしたお子さんでした」と言っていた。後で聞いたら、妻も脇坂先生のことを覚えていた。先生は小生について、「色が黒くて、すばしっこい活発な子供だった」と言った。頭がよかったとは、いってくれなかった。
 学校の下には、阿武隈川という川が流れていて、隈畔と呼ばれる岸でよく遊んだ。学校から帰った後、オイカワ(標準語ではヤマベ、九州ではハエ)を釣りに行くこともあった。また、松齢橋を渡って、弁天山という小さな山に行くことも多かった。
 附属小学校なので、先生の卵が、よく教育実習に来た。教生の先生である。何年の時だったか忘れたが、確か鈴木という名前の教生が来た。お別れの時に、"りんごの唄"を歌った。その際に、「私が、りんごの歌を歌ったことを、将来皆さんは思い出すだろう」という趣旨のことを言った。小生は、それを聞くや否や、なんて下らないことをいうものだと反発を覚えた。
 しかし、復興のムードにみんなが浸っていた終戦直後にタイムスリップさせ、我々以上の世代の人間をすごく切ない気持ちにさせる"リンゴの唄"。この歌を聞く度に、この教生のせりふが心に浮かんでくる。彼の予言は的中した。小生には、幼い頃から、先輩達の言うことに、訳もなく反発する傾向があったようだ。権威に対して、ニュートラルでいたいという欲望である。あるいは、父が、歌謡曲と浪花節とニンニクが嫌いだったので、その影響で下らないと思っていた流行歌の「リンゴの唄」に鈴木さんが言及したことに、反射的に反発しただけなのかもしれない。 小学校の時に、PTA会費や給食費を学校に持って行く日に、家にカネがないことがあった。そういうときには、(学校へ行く途中にあった母の姉の店によって)「伯母さんから借りて行きなさい」と母に言われた。店というのは、たばこ屋でその店先で、店番の人に頼みを告げるのだが、店番が伯父さんだった時には、「『お金を貸して』と母が言ってます」と言い出せなくて、その日はカネを持っていけなかった。学校で、「あっ、持ってくるのを忘れた」と言ってごまかすのと、他人の伯父さんに「おカネを貸して」というのと、二つのいやなことを秤にかけると、前者の方が、小生にとっては、ラクだったのだ。その伯父というのも、母や母の姉にとっては父方の従兄弟に当たり、まんざら他人ではなかったのだが、愛想のよい伯母に比べて、むっつりしている伯父は取っつきにくく、小生の心の中では、敬遠すべき存在だった。加藤喜代助というのが名前だが、これは襲名したもので、それまでは三郎といわれていたらしい。
 カネにあまり余裕のなかったこともあってか、買い食いをしたことはない。トコロテンなども買って食べたことはない。トコロテンは杉の葉っぱを瓶の口に刺し、それを傾けて酢醤油をかけて客に出すのだが、父親が公衆衛生の仕事をしているので、その家族から食中毒患者を出したら恥だといって、食べさせて貰えなかった。ラーメン屋さんのラーメンは大変なごちそうだった。本屋をやっていた岩瀬太一君の家に行って2階で遊んでいると、彼のお母さんがラーメンを取ってくれた。ラーメンの麺の独特のにおいをかぐと、あの本屋さんの2階を思い出す。その後遺症で、ボクの辞書にはグルメという単語は載って居ない。岩瀬書店はその後、東北一の本屋になった。
  昔は、福島市でもよく雪が積もった。道路に積もった雪が人の足や車で踏み固められて、ツルツル滑った。下駄の下に滑る鉄をつけた"大正スケート"やゴム長靴の下につけるスケートで子供達は遊んだ。竹を半分に切って、鼻緒をつけた竹スケートもあった。大正スケートが家にあったかどうかは覚えていないが、長靴につけるスケートで、よくお使いに行ったりしたものだ。今では、車も増えて、危なくて学校で禁止するだろうが、第一雪が積もらないので、物理的にできない。
 父が県庁の衛生部に勤めていたせいか、東映の招待券があって、よく錦之介などの映画を見に行った。荒唐無稽でワンパターンだったのだが、飽きないで見に行った。西部劇もよく見たが、信じやすいタイプなので、実際に人が死ぬのだと思っていた。ところが、フィルムを繰り返し繰り返し掛けるということが分かって、死んだふりをしているだけだと気がついた。真剣に西部劇を見ていたのが、ばかばかしく感じられた。5年生の時だったか、『羅生門』が外国の映画祭で、賞を貰った。母にでも勧められたか、一人で見に行った。大人が席を移動するときにボクの持って行った傘の骨を折ったので、悲しくて泣きそうになった。家が貧乏で、新しい傘を買わねばならない事態に陥ったのが、辛かったのだ。だから、内容はよく覚えていない。多襄丸が京マチ子を手込めにしたことを想像させるため、2人のショットから空へパンアップする場面では、あの後ふたりは何をしたのだろう、何か気持ちのいいことがあったのかなと思っただけだった。グランプリなんていってもたいしたことはないなぁと、へそ曲がりのボクは思った。
 6年生のころは、小野崎俊明君と近藤叔子さんが、いつも級長だった。彼らの頭の良さには、追いつけないと諦めていた。こちらは、いつもチョロチョロして悪戯小僧のままだった。算数のテストをすると、いつも授業時間の半分くらいのところで、一番に提出した。早く、解放されて、遊びたいからである。見直しなどは、したことがない。合っているはずだから、無駄だとしか思えなかった。それでも、蓋を開けてみると、けっこう間違えていた。中学校に進学するときに担任だった茂木利夫先生が、ひとりひとりに立派なノートをくれた。そこには、それぞれ教え子ひとりひとりに対する先生のメッセージが書いてあった。ボクのノートには、「沈着」の二文字。それによって、ボクがその後は、冷静沈着になったなどということは、なかった。
 頭もめっきり良く、絵が上手だった近藤さんには、ずっとあこがれての気持ちを抱いていた。彼女は小学校卒業の後、東京に来ていたので、完全にご無沙汰だった。20世紀の終わりか、21世紀の初めに、一緒に土湯温泉での同級会に参加することになり、半世紀ぶりに会った。昔の面影が残っていて、懐かしかった。福島に行く新幹線の車中で、いろいろと話をした。そのさい、近藤さんは、「あるとき、アチーブメントテストか何かの結果を偶然見てしまったことがある。自分がトップかなと思って見たら、その時は貴方がトップだった」と言った。小・中・高と、常に自分の成績は中くらいだと思いこんでいた。小学校2年で編入試験を受けたとき、試験の結果が散々だったことは知らなかったが、その後の学力に自信はなかった。それを知っていれば、人生が変わっていたかもしれないのにと思ったが、そんなことを言っても詮方ないので、何も言わなかった。或いは、あまりに意外な事実を聞いて、戸惑ってしまい、気の利いたことを言おうとしても適当な言葉が見つからなかったという方が正確かもしれない。彼女は「チェッ許せないと思ったけど、「母から 『貴方は親戚筋に当たるヒトだ』と母から聞いていたから、まあ仕方がないかと思った」と言われ、"エッ!あこがれの彼女と実は血がつながっていたのか"と血が逆流するような気がした。が、桑折のO家にある意味でのつながりはあるものの、当方との血縁はないようである。
 6年の時だったと思うが、茂木先生が男子児童の何人かに体罰を加えた。軍隊流の平手打ちである。足を開いてとかなんとか、怪我をしないように注意をしてから、本気のビンタだった。あの先生の手の甲には、空手でできたようなタコがあったような気がする。本当にけしからん。そのときは逃れたが、中学校で担任の先生にびんたの制裁を受けた。そのことで、ずっと、恨んでいた。その先生は親も教師で、割に出世が早かったが、比較的早く亡くなったそうだ。それを聞いて、「ぼくに平手打ちをさせたためだ、ざまあ見ろ」と本気で思った。その気持ちは今も変わっていない。死者のことは悪くいわないのが、日本人だが、そういう意味では、ボクは日本人でない。その先生が顧問をしていた演劇部が演劇を演じたとき、観客席が騒いだというので、騒いだ生徒と認定されて体罰の対象になったのだが、演劇をしていた役者の一人は半年年長(学年は一つ上)の従姉であって(PTA会費などを借りた伯母の四女)、ボクは絶対に騒いではいない。本当に心に深い傷となって残った。教師になろうなどと、一瞬でも思わなかったのは、これも原因である。
 小学校の先生は軍隊帰りで、戦後6年もたっているのに、五分刈りで軍服を着て授業をしていたくらいの人だから、軍隊の流儀が懐かしかったのかもしれないが、それは間違っている。
 祖父は、退職して悠々自適の身になって、よく釣りに行っていたようだが、小生も、阿武隈川などでオイカワ釣りをした。サシというウジ虫がえさで、たまに鮎も釣れた。梁川の方に粟沼という一種の三日月湖があって、そこではフナが釣れた。自転車で1時間くらいかかったような気がするが、そんな遠くまで、よく一人で行ったものだ。又、阿武隈川で30センチほどの鯉を釣ったこともある。基本的には、こらえ性がなく、飽きっぽい性格から、よい釣果が得られることは、今にして思えば、期待すべきでなかった。大分に勤務していたとき、カメラマンとダム湖か何かにワカサギ釣りに行って、釣れないので腹を立てて、釣り竿を折って投げ込んで帰ってきたと、そのカメラマンに聞かされてびっくりした。同じ大分では、制作の副部長だった人が、海岸に散歩に行ったとき、ボクが堤防で釣りをしていたのを偶然見かけたが、その時も釣れないからと、派手に竿を折って海に投げ込んだそうな。周りで釣っていた人が、よく怒らないなあと不思議に思ったという。海彦、山彦というのは、どういう話だったか忘れたが、海でも山でも竿を折っては投げ捨てる話でないのは、もちろんだ。周りの人の迷惑を顧慮せず、まったく勝手に振る舞う我が輩は、正に"傍若無人"だった。或いは、天上天下唯我独尊か。
 小学校の5年と6年の夏休み、安達太良山の中腹にある岳温泉の林間学校に行った。学校の主催でなく、赤十字の主催だった。何でも、身体の虚弱な子供が対象だとのことだったが、衛生部に勤めていた父の役得で入れて貰ったらしい。もっとも、福島の銀座4丁目交差点にあたる'福ビル前の交差点'のすぐそばのお店の娘で、小学校の同級生らもきていたが、彼女たちも虚弱児には、見えなかった。しかし、安達太良登山も中間地点までしか行かなかったので、やはり一応は虚弱児のためにということだったのだろう。一番の楽しみは、一回ずつ貰えたギフトボックスだった。縦と奥行きが10センチ、横40センチほどの小さな箱に、文明国アメリカのかおりのするものがぎっしりと詰まっていた。チューインガムやキャンデー、歯磨きチューブの他は思い出せないが、みんなとてもよい香りがした。
 イラクでは、アメリカ軍から無料のキャンデーを貰おうと集まった子供達が、抵抗勢力の仕掛ける爆弾のターゲットになって大勢死んだという。我々は、殺されることもなく、アメリカの子供達からのギフトで、とても幸せな気分になった。
 夏は、海水浴に相馬方面に出かけた。母の世代は、親類の別荘があって、そこに泊まって海水浴をしたらしい。上・中流階級同士の交流もあったらしい。そこから発展したロマンスがあったとは聞かない。ボクの時には、利用できる別荘などなかった。バスで霊山の辺りを通るか、東北線で岩沼まで行って、常磐線で相馬か新地に駅に行って、松川浦か新地の海岸で泳ぐのだった。家族で、民宿に泊まりに行ったこともある。その家の子供に、守江君というのが居た。浜通りの出身で参議院議員や福島県知事をした木村守江にちなんで付けられた名前だったが、彼は福島県知事時代に汚職で捕まって汚辱の晩年だった。名前を付けた親は後悔したことだろう。福島の中流階級の家庭に育った母のバカンスの海の南で原発があのような大事故を引き起こしたことは母にとってすごく悲しいことだろう。
 松川浦で食べた大きな鍋のあさり汁はおいしかった。二度とあんなにうまいあさり汁を食べたことがない。それで、新鮮な魚介類を売っている魚屋から買ってきては、時々作っている。小学生に戻らない限り、あの味のカムバックはない...。時よ戻れ!おまえは美しい!


中学校
1年生
 中学に進学した当時の思い出は、ほとんどない。2年・3年の時の思い出が多いのに対して、1年の時のことは印象に残っていない。記憶の空白地帯のようだ。このとき、同じクラスだった女性で石原華子さんがいた。小さくて、ぽっちゃりとしていて、動作があまりにおしとやかだった。官選・民選の知事と参議院議員をした石原幹一郎が父、県の教育委員をした三起子が母、兄も国会議員という人で、小生が政治部にいるときに、父の参議院議員の議員会館の事務所に行ったら、彼女も秘書の手伝いとして顔を出しているらしかったが、本職の秘書に取材すると足手まといとなっているような印象を受けた。しかし、その後、外交官と結婚したと聞いた。ボクのいつもの癖で、彼女が役に立たないお嬢様だと思いこんでいたのは、早飲み込みだったのだろう。
 校庭の砂場でおなじクラスの生徒と相撲を取って、外掛けが決まり、相手の手の骨を折ったのは1年生の時かもしれない。だれにもいわなかったので、親と一緒に相手の家に謝りに行くこともなかった。身長は、クラスで前から2~3番目だったのに、気が強く、前陣速攻型の相撲を取ったものだろうか。先生にも、いわなかった。彼は、静岡に住んでいるが、その後クラス会に一度も来たことがない。あんな乱暴な奴の顔を見るくらいなら、行かない方がましだと思っているのか。
2
3年生 
 中学校の2年と3年の時が、一番生き生きとしていたと思う。2年と3年のクラスのメンバーは同じだった。あの頃は、太平洋戦争への道を歩んだ日本の反省から、個性的で自主的な人間を育てようというムードが、学校にあったような気がする。"先生のお気に入り"のような存在の正反対だったから、先生方に本音を聞いたことはないが、そんな共通認識を持っていたのではないか。日教組のスローガンで、"教え子を戦場に送るな"というのがあった。特攻隊の生き残りという理科の教師古関先生も居たし、「ボクの人生観はまだ完成していない。君たちと一緒に考えよう」などと自信のなさを見せる英語教師深谷先生も居た。
 中学校で、もっとも印象に残った先生の言葉は、「よい絵を描け、うまい絵は描かなくてよい」という図工の鈴木栄先生の言葉だった。絵の苦手なボクだけに対する言葉でなく、絵の授業が始まる前に、教壇でみんなに話した言葉だった。小学校での近藤さんのように絵がうまい人が羨ましく、ボクの絵は全く写実的なところはなかった。あるものを写生しても、それがそのものの写生だとは誰にも分からなかった。
 ところが、中学の時にボクの描いた絵が教室の後ろに張り出された。丸と三角四角を組み合わせた抽象画だった。黒と黄色を使ったりして、はっきりと図形を描いていたが、まとまりのないものだった。三重丸が先生によって絵に描かれていて、初めて絵でほめられたと、とても嬉しかった。ただ一つ残念だったのは、絵は天地を逆にして張り出されていたことだった。△は底辺をしたにした方が落ち着くのだが、ボクは多分頂点を下にして描いたのだ。NHKスペシャルのタイトルで▽の出てくるものがあった。あれは、頂点が下だった。ダイナミックな効果をねらったのだろう。
 優秀な子が中学校の段階で入学してくるので、普通の市立中学に比べて、学力の水準は高かった。こうしたことも反映して、こちらの学力はたいしたことがなく、学級の委員長などになったことは一度もなかった。しかし、クラスで4人くらい選ばれる議会の議員には何回かなった。いつも、わあわあと口をとがらせて、何かを主張していたのであろう。議会の活動に力を入れていたのも、学校側の姿勢の背後に何かがあったような気がする。自民党文教族に突き上げられて逆コースを目指す文部科学省や君が代の歌唱を拒否する教員を厳しく取り締まる東京都教育庁とは正反対の何かが。 しかし、あのクラスが、ヴィヴィッドだったのは、先生の功績だけではない。ある頭のよすぎる生徒がいたのも看過できない。内池道生とボクは、2年になって初めてクラスが一緒になった。ある時、教室の前の方で、"喧嘩"をした。殴ることはせず取っ組み合って、相撲のような形でしばらく、もみ合った。なんとなく、生意気な奴だと互いの存在が気になり、軽く決着をつけようかと双方の呼吸が合って、組み合ったのである。身体は小さくとも、足腰の丈夫な我が輩は腰を曲げて構え、時折下手投げを掛けて、相手の体勢を崩すなど、互角に渡り合った。みんなの見ている前での戦いだった。雨降って地固まるというのか、この後すっかり仲よくなった。
 ある時隣同士で、授業に出ていた。ボクが前日の夜ラジオで聞いた落語の話をした。死ぬというのは縁起の悪い言葉なので、「し」を、「よ」に言い換えるんだと言った。しばらくしてから、彼が「よんじゅく、よぶや」と言う。何?と聞き返すと、さっきの落語の言い換えの例だった。「新宿、渋谷か!」と分かると、先生が一生懸命授業しているのをよそに、笑いを怺えきれず、吹き出してしまった。それまでの私語に苦々しい思いをしていた教師は、ボクだけを指名して、「外に出ていろ」と言った。すぐに、廊下に出て、授業が終わるまで立っていた。"聞かなくても、残念とは言えない授業内容だ"と思った。それ以上の処分はなかった。
 その後、彼とボクは高校卒業の年、東大を受けた。彼は、理Ⅰに合格し、文Ⅱを受けたボクは不合格で、浪人した。駒場に合格者名簿を見に行って、東横百貨店の2階の改札口から山手線外回りのホームに入ったとき、カーブしているレールが鈍く光っていた。ボクと一緒なので、難関突破の喜びを表すのを自制している彼が気の毒だと思う反面、ローレライに吸い寄せられるように、レールに向かって飛び込まないようにと、心の中で自分に言い聞かせて、足を踏ん張っていた。きっと、泣きそうな顔をしていたに違いない。あの運命の渋谷駅は、道生君が3~4年前に"ヨブヤ"といって、ボクを笑わせた駅だったのだ。当時の東大の入試は、文Ⅰ、文Ⅱ、理Ⅰ、理Ⅱの四つのコースに分かれていた。今は、文Ⅰ、文Ⅱ、文Ⅲ、理Ⅰ、理Ⅱ、理Ⅲの六つに分かれていて、医学部に進学する理Ⅲが、全国一の難関なのだろうが、僕らが受験した頃は、医学部に進むコースの理Ⅱに受かっても、医学部に行けるとは限らなかった。従って、当時は理Ⅰが一番難しかったのではなかろうか。彼が、その理Ⅰに現役で合格し、ボクは一番易しい文Ⅱに落ちた。レールの光に吸い寄せられるような気がするほど、絶望的な気分だったことを理解してもらえると思う。彼とは、同じ高校を卒業したが、その高校では、僕らが入る1年前まで女性を5人程度入学させていて、そのうちの一人が東大の衛生看護学科に入っていた。色の白いとても素敵な人だった。その後、同じ大学に入ったのに、一回も口をきけなかったのは、残念だった。古井由吉という作家の奥さんになっているれしい。
 彼は頭がよすぎて、ついて行けなかった。『クオ・ヴァデイス』とか『サロメ』を文庫本で読んだり、『青い麦』の映画を見たりしていた。また、『天井桟敷の人々』の映画を見て、ヒロインを見て出演者が言う「人生は素晴らしい、キミも素晴らしい」というせりふを教えてくれたりもした。『天井桟敷』は大人になってから見た。中学2・3年のボクには、難しくってチンプンカンプンだったろう。彼が読んでから半年ほど後に、ようやく同じ本を読んで追いついたような気になったこともある。『サロメ』は、素晴らしかった。結局、恋をしなかったのは、あんな恋はできないと思ったからかもしれない。ビアズレーの絵も、オスカー・ワイルドの世界にマッチしていた。刷り込み現象のように、感動するときは、成長期とかに限定されるのだろうか。すれてくると、感激しなくなる。
 なぜか、暗くなった教室にみんなで残って議論をしたことがある。そのときに、彼は「原爆を使うと人口が減って、プラスになるという側面もある」という趣旨のことをいった。われわれは、唯一の被爆国に住んでいる以上、反核の立場が当然の常識だと思いこんでいる中で、こうした意見を吐くこと彼にびっくりさせられた。また授業中先生が生徒に質問して、なかなか"正解"が出なかったことがある。そのときに、彼が、「それは、そのものがあるからです」と答えた。先生は、「それは新しい考え方だ」と言って称賛し、生徒への質問はおわりになった。哲学的な話しになったような気がした。ボクには、設問に対する正解だとは、どうしても思えなかった。先生も、彼には一目置いているなと感じた。
 中学の2年か3年の時に、その友人が『共産党宣言』を読んだ。同じ本を読むのがいやで、ボクは『空想から科学へ』を読んだ。人間の社会の歴史に一本の筋を通して分析できることを教えられたような気がして、正に目からうろこが落ちる思いがして、鳥肌が立った。そうか、人間の社会とは、偶然の力関係で変化してきただけではないのか。神が存在するかどうかは別として、見えざる意志に導かれるように、前に進んでいるのだと思った。
 稲荷神社の南側のバラック立ての店の中に、小さな古本屋のようなものがあった。そこで灰色が基調になった表紙のマルクス・エンゲルス全集のようなシリーズの何冊かがあった。『フランスの内乱』というのは覚えている。しかし、『空想から科学へ』を岩波文庫で読んだのか、そのシリーズにあったのかは覚えていない。その本屋は、きっと共産党の人なども出入りしていたに違いないが、店の人や客らと交流することはなかった。しかし、歴史の原則を学んだという うれしさから、自分だけのものにしておくのはもったいないと、謄写版で新聞のようなものを作って、学校の図書室の入り口に100部ほどぶら下げた。学校の謄写版を使って印刷し、裏表で1枚、内容は本の受け売りに過ぎないものだったが、新聞のタイトルは「REVOLUTION」とした。世の中をよい方向へ変えるために努力しなくてはという思いからだった。それは、その友人と一緒にやったのだが、神の啓示を受けたかのように、僕の心にふっと、「こんなことをしたら、ヤバイのではないか」という思いがよぎった。'その啓示'が、ぶら下げた直後なのか、一旦帰宅した後なのか、帰宅途中なのか、半世紀も前のことで思い出せないが、彼に急遽「やめよう」と提案した。せっかくの苦労を無駄にして しまうことだったが、彼もボクの勘を評価したのか、すぐに了承した。図書室の入り口に僕たちが放課後にぶら下げた『REVOLITION』は、だれも持って行った形跡がなかった。全部外して、捨てた。10年ほどたって、ボクの結婚式の時、ある事情から出席したその友人(実は見合いで結婚することにした妻は、道生君の母親の姉の娘で、二人はいとこ同士だった。ただ、その見合いを持ちかけたのは、私の母の女学校の友人で彼は一切関係がなかった)と顔を合わせた。どちらともなく、「あの時やめていなかったら、こんなことをしていられなかっただろうね」と言い合って、ニャッとしたものである。「アカ」という言葉が、かなりのマイナスシンボルだった時代で、もしあれを外さなかったら、学校は大騒ぎになり、僕たちは放校処分になっていた筈だ。
 また、そちらの系統の本ばかり読むのもどうかというバランス感覚が働いたのか、河合栄治郎の『自由主義の擁護』という本も買って読んでみたが、陳腐な感じで、心惹かれる部分はなかった。とにかく、『空想から科学へ』を読んだときの真理の一端に触れた思いのした感激は、強烈だった。この友人は、高校に入ってから社研-社会科学研究会を作った。福島大学経済学部の教授を顧問格にして読書会などを企画したが、その教授が僕の姓を正確に発音できなかったので、ボクは、そのグループから離脱した。教授は、ボクの名前を「やかま」と呼んだのだ。        
 そのグループのメンバーで、卒業の年に新潟大学の医学部に入ったのに、学生運動をするために退学し、法政に入り直した男も居た。また、そのころのメンバーで、慶応の経済学部に入った高校のクラスメイトもいる。安保闘争の次の年だったか、彼と東京教育大学のキャンパスの近くで、ばったり顔を合わせた。彼は、何をしに来ていたのだろう。その後会っていないので、彼がどうなったのか、どこに就職をしたのかなど一切知らない。                                 
 「日本のアカデミズムは感情的な要素で左右されることがある」と、ある教授が本郷三丁目からT大本郷キャンパスに向かう途中、林 健太郎教授とすれ違った際、ボクに言った。彼の一高での先生だそうだ。共産党に入った男にでも、自分の女を取られて、右寄りに転向したのかなと思った。ボクが社研を抜けたのも、感情的なレベルの問題だった。
 こんなふうにボクは人間の歴史の根底に潜む原理を発見したような気になっていたが、中学校の歴史の先生は、優秀な教師を集めたはずの付属中学校のわりには、印象が薄い男性だった。語尾に、「......ネ」というのが癖で、そう言わないと講義できなかった。その癖を見抜いたボクは、正の字で彼の口から発する「ネ」の回数をカウントした。瞬く間に、それは教室全体に広がってしまい、先生は、生徒全員の冷笑の中で授業を進める羽目になった。その授業の途中だったか、新しい授業からだったかは定かでないが、かれは、「ネ」の代わりに「ナ」と言うようになった。それが、また「ネ」に、戻ったのか、「ナ」のままだったのか、両方言わなくなったのかは覚えていない。先生を悩ませたカウントは、悪童の一時の気まぐれだった。
 道生君が、ある文学少女から招待を受けて、一人で行くのも何だからとボクを誘い、介添人のような形で一緒にその生徒の家に行ったことがある。その家の生徒と2~3人の女生徒がいた。ボクをのぞく全員は、盛んに文学の話をしていた。ボクには、初耳の書名も多く、カヤの外だった。彼は、女生徒に人気があり、こちらは、付録のような存在だった。人気者だけに、女性などがすり寄ってくると、'そちらにはあっても、こちらにはあんたに興味はない。うぬぼれないでくれ'というような顔をして、すげない態度を取ることがあった。まねをしてみたいと思ったが、こちらには接近してくる女性も居ないので、できなかった。
 福島は、南の端とはいえ、東北である。昔は、よく雪が積もった。ボクも、中学生の頃はスキーに行ったものだ。新幹線で変わってしまったか、当時は奥羽線があって、峠スキー場や板谷駅から歩く五色スキー場に行った。峠は駅のすぐそばだったが、五色は駅から大分歩いた。しかし、ロッジなどが立派で、ゲレンデも広かったろう。高松宮か何かがよく来ていたのかもしれない。宮様何とかというのがあったような気がする。母におにぎりを作ってもらって、腰の方に縛り付けて滑っているうち、何度も転ぶものだから、おにぎりのご飯が、冷凍したようになっていて、吃驚したことがある。そのまま食べたが、ご飯のシャーベットのようだった。福島から見える吾妻山の高湯でもスキーができた。福島駅からバスで行った。ある時バスから降りたらボクのスキーがなくて、パニくった。バスの後ろの方につけて運ぶのだが、他の乗客のものはあるのに、なかなか見つからないのだった。最後に見つかったが、このまま出てこなかったら、どうしようと気が気でなかった。今でも、高湯はあまり好きではない。そのころのスキー板は、木でやっとエッジを付け始めた頃だった。最後には、少し滑れるようになったが、大学入試の勉強に打ち込むには、休日にスキー場に行くのはプラスにはならないだろうと考え、高校に入った後は、すっぱりとやめてしまった。
 その後、金沢にいたときにスキー場に行ったが、雪が重くて靴から後ろの部分をスムーズに動かせなかった。岩手の安比などのようなパウダースノウと短いスキー板なら、うまくクリスチャニアができたかもしらないが、白山の近くのスキー場に行って、方向転換ができず、コースから5~6メートルほど下につっこんだことがある。上のコースを滑っていく人は見えるが、誰も助けに来てくれず、これも遭難かと思った。助けてくれと言うのも恥ずかしいし、スキー板を外してコースまで上がろうとしてみたが、腰まで雪に吸い込まれてしまい、身動きが取れない。仕方なく、又スキー板をビンディングで靴に固定し、横に寝て、少しずつ膝を曲げては伸ばし、曲げては伸ばしして、身体をわずかずつ異動させて、かなり時間を掛けてコースに戻った。釣りなら、チキショーと叫んで釣り竿を折って海に投げ込み帰るところだが、スキー板は厚くて折れないし、スキーをはいていないとロッジに戻れないのだった。もう木の板ではなく、グラスファイバーのようなものが原料だったか、何せ重すぎた。何に関しても、自分のドジさ加減に呆れるばかりだが、スキーはその最たるものである。
 正確には誰と行ったのか覚えていないが、同級生らと吾妻山に登った。その後、吾妻スカイラインができて、一切経山や吾妻小富士に簡単に上れるようになってしまったのは、ちょっと寂しい。その時には、東吾妻にも行ったが、そのあと沼尻に方に行くときだったか、モウセンゴケが沢山生えていて、その上に空が真っ黒になるほど赤とんぼが群れていたのが、印象的だった。当方の感受性がもう少し鋭ければ、きっと山男になって学生になってから、北アルプスなどにでも行っていたはずである。
 このときは、理Ⅰに現役で入った道生君も一緒だったと思うが、彼は尾瀬にも行った。会津田島まで行って、トラックの荷台に乗り、檜枝岐村に行って泊まった。父の職場の人が連れて行ってくれたのだろうか、だれか大人が居て僕らを引率していた。檜枝岐は、平家の落人部落というが、きれいな川が流れていて、民宿なようなところで食べた、らっきょうのおひたしがおいしかった。 尾瀬では木道の上を歩いた。当時は、それほど喧伝されてはいなかったこともあって、不感症の我が輩は、'自然の宝庫だ'などと感激することはなかった。吾妻山とそれほど、変わらないように思えたのだろう。長蔵小屋に泊まったのか、日帰りで檜枝岐に引き返したのかは定かでない。福島県では一番標高の高い燧岳に登ったが、尾瀬自体が高いところなので、山頂まで行くのも簡単で疲れなかった。
  友達と相撲をして外掛けで相手の腕の骨を折ったりしたボクだが、あまり病気はしなかった。しかし、鼻が悪く、中学の時か中学と高校の時か、都合2回手術をした。肥厚性鼻炎と蓄膿症の手術である。その時、入院していた病院で広告を見たのか、なぜか興味を引かれて、『狂熱の孤独』という映画を見た。ミシェル・モルガンとジェラール・フィリップが出演していた。アメリカやイギリスでなくフランスに引かれるようになったのは、ティーンエージャーの時に見たこの映画が犯人なのかもしれない。なんとなく、カミュの『ペスト』のような雰囲気の映画だった。
 松川恒夫と西谷忠久という同級生も居た。2人はなぜかヒコーキマニアで、確か彼らと付き合って、太平洋戦争で撃墜王と言われた坂井三郎などに興味を持った。零戦のほか、スピットファイヤー、メッサーシュミットやフォッケウルフなどという軍用機の名前に心を躍らせた。若者がカーやオートバイに魅力を感じるようにパイロットが飛行機を操るのは、かっこいい自己表現だと思えたのである。西谷君の家は稲荷神社の前の西屋旅館だった。よくレコードを聴いた。皇帝円舞曲だったと思う。そこから、本格的にクラシック鑑賞に進むということもなかった。30分以上一つの曲を聴くというねばり強さはボクにはなかった。松川・西谷はグローエンジンを積んだ模型飛行機の仲間だった。当時ラジコンはほとんどなく、Uコンといって、2本のワイヤーで昇降舵をコントールするグローエンジン付きの飛行機が主流だった。エンジンは2000円もして、当家にとっては大変高価な物だったが、要求が通るまで口を聞かないストライキのようなことまでして母親に金を出させて買った。家で2~3回エンジンを掛けたが、機体までは手が回らず、結局飛行機を飛ばすには至らなかった。これまでに、無駄遣いは何回もしているが、こんな親不孝者は、もし神が存在すれば、雷にでも打たれて何回も死んでいるだろう。


 松川君は、東大工学部航空工学科に進み、就職先も航空機を製造する富士重工だった。航空工学科でも、エンジンを専攻し、自動車メーカーに入る人が多かったが、彼のようなケースは、'三つ子の魂百まで'とでもいえば、いいのだろうか。最近は会っていないが、定年退職後も、しばらくは、ヘリコプターを作る子会社でヘリコプター製造に携わっていたはずである。
 中学は2・3年と持ち上がりだったが、このクラスから、現役、1浪、2浪合わせて6人が東大に入った。『週刊現代』だったか、"47都道府県のエリートコース"と銘打って各県の有名校を、紹介したことがある。福島県は、附属小学校、附属中学校、県立福島高校で、ボクはそのエリートコースを進んだことになる。エリートといっても、なんのことはない東大の入学者の数がメルクマールなのである。ボクが1浪で受験したときには、現役・浪人合わせて確か9人が福島高校から東大に合格した。週刊誌が取材した時には、福島高校が、安積、会津、磐城、白河高校よりも合格者が多かったのだろう。         

高校
 中学を卒業して県立福島高校に入学した。小学校2年生の2学期までと、この高校をのぞくと、他は国立の学校に通ったことになる。付属の卒業生で落ちる子はほとんどいなかったから、安心していたが、音楽が心配だった。曲の出だしの部分の音符を見て、その曲名を書く問題は、全くできなかった。無論、ドとかレとかミというのは、分かるがそれを口の中で歌おうとしても、音の高さのイメージが頭の中に浮かんでこないのである。仕方がないので、形で丸暗記することにしたが、うまくいかなかった。幸運にも、その形式の問題は出なかった。例の頭のいい道生君と話してショックを受けた。「二乗して25になる数を書け」という数学の問題に関してである。ボクが、「どうしてこんな簡単な問題を高校入試で出すのだろう」ときいたら、彼は「キミは、-5は書かなかったの」と言ったのだ。「そうか、それも、きちんと書くかどうかを確かめる問題だったのか」と地団駄を踏んだ。しかし、無事合格した。
 1年の時担任は体育の先生だった。「どうしてこんなに期末試験の点が悪いんだ」と言われたことがある。もしかすると、中学の時には、案外成績が、よかったのかもしれない。頭のいい友達に引きずられて、高校入試の点も高かったのかもしれない。「それなのに、このていたらくは、どういうことなんだ。キミの実力は、こんなものじゃないはずだ」という激励だったのだろう。そんな裏の意味が分からなくて、落ち込んだものだ。中学時代のビンタのトラウマが残っていた。
 高校に入ってすぐ父が盲腸で入院した。神岡外科病院という中学で同学年の女性の父が院長だった。その病院の見舞いに行くと、ボクも盲腸が痛くなったような気がした。念のため検査をして貰うと、間違いなく盲腸だという。入院の時期がダブったかどうかは覚えていないが、ボクも入院して手術を受けた。親戚のものが来て、からかって笑わせるので、手術の跡が破けるのではないかと本当に心配した。又、病室で安静にしていなくてはならないので、叔父の持っていた蔵書の中から、20~30冊ほどミステリーを借りて読んだ。古典といわれる『樽』はなかったが、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、ダシェル・ハメット、ジョルジュ・シムノン、E・S・ガードナー、ミッキー・スピレーンと本格ものからや法廷ものからハードボイルドまで、ハヤカワのポケミスを読みあさり、探偵小説の各カテゴリーの特徴を一応マスターしたような気になった。
 盲腸で、10日か2週間ほど学校を休み、高校の授業に出ると、困ったことが起きた。古文の授業がさっぱり分からない。教師は、さかんに係り結びの法則などといっており、みんなも分かったような顔をして聞いている。当方には、まったくチンプンカンプンで、ボクを勝手におきざりにして授業をするのは、けしからんと思った。                 
 そこで、ちょっと文法の教科書を見てみた。すぐに古文のいくつかの法則が分かった。それいらい、すっかり古文が得意になって、ずっと5だった。ただ、その國學院出身の教師は、「池田亀鑑先生はこういい、山岸徳平先生はこういう」などと、他人の解釈の引用しかしない人だった。附属中学校で、「うまい絵でなくてよい、自分独自の絵がよい絵だ」と教わってきた身としては、見たこともない国文学の泰斗の解釈はともかく、目の前の教師は、どれが正しいと思い、なぜそう解釈すべきなのかの理由を説明すべきだと思ったし、それができないのなら、教師の風上にも置けない馬鹿だと思っていた。授業中露骨に馬鹿にした態度をとり続けた。その仕返しなのだろう、教師は、最後に4をつけた。
 現代文の教師は、文士みたいな人で、難しすぎてよく分からなかった。サント・ブウブの『我が毒』から引用してテスト問題を作ったりした。フランス語でタイトルが書いてあったので、我が毒という意味だと知っているよと、答えの中に、「我が毒」という3文字を入れたりした。ボクでも、67点しか取れなかったが、それでもよい方だったのではないか。先生が、どういう意味かといって、生徒に質問し、最後まで正解が出なかったこともあった。"スキャンダル"の意味を問うものだった。評判といってほしかったのだろうか。せめて、正解は何だと、種明かしをしてほしかった。
 世界史では、一回、百点を取ったことがある。先生は、百点はなかなか取れるものではないといったが、名前は明らかにしなかった。答案用紙を見た我が輩は、思わずほほがゆるんできて、心の中を隠すのに苦労した。どちらにするか、迷ったところが2~3カ所あって、"えーい"と書いたのだが、ばくちが当たったんだと思った。放課後、そばにいた友達が、「あれは、キミか」と聞いてきた。ちぇっ、見破られたのかと癪に障った。
 1年か2年の夏休みに、福島競馬場の中にある馬術連盟用の施設で行われた馬術の合宿に参加した。道生君の父君が福島県馬術連盟の理事長で、彼が夏休みの合宿に参加する際、ボクも道連れにしたのである。県立農蚕高校の先生も居た。ちっともうまくならなかったが、3年後大学の馬術部に入ったのは、このときの経験があったからである。福島市の荒井にあった種畜場に道生君のオートバイの後ろに乗って行ったこともある。帰りにボクが怖くなって足を地面につけたため、ハンドルを取られて水のない溝に入ってしばらく走った。その時に、オートバイの何処かが地面と接触したせいか、もう一度エンジンを掛けて走り出すと、クラクションが鳴り続けたので閉口した。福島に帰り着くまで、止められなかった。あの頃は、オートバイに乗るとき、ヘルメットなどかぶっていなかった。馬に乗るときも学帽でよかった。襟の付いたシャツを着ていれば......
 1年では、道生君と別のクラスだったが、2年のクラス編成の際、彼が悪知恵を働かせた。社会の選択科目として何を選ぶかで、2年と3年のクラスが決まるのである。記憶すべきことの分量が多いので、2年で世界史、3年で日本史を選ぶ生徒が多かった。そのクラスは複数できるので、逆に2年で日本史を取るコースを選ばせて、自分の息のかかった生徒が同じクラスになるようにしたのである。ボクもその方法で中学校の時と同様、2・3年は彼のクラスメイトになった。彼も結構先生を馬鹿にしていて、英文法の時間はエスケープした。先生が出席を取ると、彼はいつも欠席。ところが、他にも何人かが常に行動を共にした。道生君が引率して、体育館に行って卓球していたのである。いつも同じメンバーなので、先生も苦笑いしていた。ボクは卓球があまり上手でないし、そこまではかれの言うことは聞かなかった。他について行くのがいたので彼も、強くは誘わなかった。彼は、ボクだけが友人だったわけではない。後年、大学の時に、「法学部に進学しないで、文学部に行け」と慫慂された。法学部は学生運動に熱心でないからというのである。卓球と同様、彼には従わなかった。もっとも。卓球をしなかったのは、スキーをやめたように、とにかくどこかの大学に入らねばならぬという強迫観念で金縛りになっていたからである。農地も店も財産もないボクは、大学を出てサラリーマンにでもならないと、飯を食っていけない。                                                   中学の教室や放課後は生き生きしていたし、大学のキャンパス生活も楽しかったが、この強迫観念の下に過ごした 高校の3年間は、灰色の時代だった。スキーに行くのを控えるという禁欲ぶりは前に書いたが、休み時間には身体を動かさず、岩波文庫の5冊あった 『源氏物語』を読んでいた。門前の小僧のようなもので、さっぱり意味がつかめなかった。道生君が『平家物語』が面白いといったので、対抗して読み出したのかもしれない。源平合戦という言葉もあり、同じようなものだと思ったのだろう。読みやすさは、天地ほど差がある。国文法の知識のみでは歯が立たず、勉強していると自分自身を納得させ、ストイックに時間を使っているという仮面としての効果しかなかった。
 これも、道生君の触っていない世界ということで、ボードレールの『悪の華』を読んだ。その素晴らしさが分かるような気がした。角川文庫の村上菊一郎訳のものである。ボードレールの素晴らしさは、自分にしか分からないと決め込んで、大学はそっちの方面に進むかと考えるようになった。意識しなかったが、「人生はボオドレエルの一行にも若かない」との『侏儒の言葉』がボクの深層心理にサブリミナル技法のような効果をもたらしたのだろうか。(ザブリミナル=〔「識閾(しきいき) 下の」「潜在意識の」の意〕テレビ・ラジオの放送や映画などに、通常の視覚・聴覚では捉えられない速度・音量によるメッセージを隠し、それを繰り返し流すことにより、視聴者の潜在意識に働きかけること。)ボードレールのような詩人になりたいと思い、17歳を期して詩を作ろうと思った。ところが、心の中に一行も詩が浮かんでこなかった。一語さえも、一字さえも。詩人は諦め、研究者になろうと考えた。それで、文学部仏文科を志向することにした。
 文学といえば、よく芥川の本は読んだ。新潮文庫には『黄雀風』『羅生門』などのタイトルの6冊か8冊の短編集がある。マチスの抽象画のデザインのカバーを掛けたその文庫本を、繰り返し読んだ。文章を書いたり読んだりすることを苦にしなくなったのは、芥川のおかげである。中学生の頃には、吉川英治の『宮本武蔵』が家にあった。夢中で読み、面白くてやめられず、疲れると、寝転がって読み進んだ。そのせいで、近眼で乱視になった。人生観のようなものが武蔵を読んで形成されるような気がした。高校の頃、漱石は読んだが、?外は読まなかった。太宰なども読んだ。これは中学の頃、例の友達の影響かもしれない。とにかく、短編ばかり読むのは誰でもできると、ロマン・ロラン、トルストイ、ドストエフスキー、マルタン・デュ・ガール、トーマス・マンなどの大河小説も読むようになった。これらを読んだのは、大学に入ってからもあるし、数年前に読み終えたのは、プルーストの『失われた時を求めて』の新訳である。これは、数十年前に、新潮文庫版で読んだのだが、何を言っているのかが分からなくて、まるで『源氏』を原文で読んでいるような気分だった。ところが、集英社から、鈴木道彦個人訳というのが出て、それを買って、読み通したのだった。ある事情により、全12巻か13巻か30%引きで買った。
 前述したように、財産も店もない小生は大学を出てサラリーマンになるほか道はないという強迫観念から、重くのしかかる灰色の冬の空のように高校時代を感じていた。模擬試験で、もっともよいときで9位が2~3回あった。9位でも1桁であり、父がいたく喜んでくれた。しかし、田舎の県立高校でのまぐれの9位では、現役で東大に合格するのは無理だった。そうした焦りから、高校2年の夏休み研数学館の夏期講習に出た。解析Ⅱでまだ学校で習っていないところを講義で聞かされた。チンプンカンプンで、ぐっすり眠った。話の内容にまったくついて行けないと人間は眠くなるという法則があることを発見したのである。今でも水道橋を通ると、この夏を思い出す。このときに、1週間は阿佐ヶ谷駅の南の父の義姉の家に泊めて貰い、1週間は阿佐ヶ谷駅の北の母の叔母の家に泊めて貰った。この家にはフランス文学のきれいな本があった。フローベールとか。なくなった叔母の夫で台湾で仕事をしていた人のものだった。この家は阿佐ヶ谷と高円寺の中間にあった。朝、高円寺に出るときはみんなの後ろからついて行けばよかったが、帰りは、交差点で、どの道を選べばよいか分からず、なかなか家に帰り着けず、往生した。高円寺に戻り、阿佐ヶ谷まで行って、河北病院の脇を通る道を経由してようやくたどり着いた。数年前、母の叔母さんの長男水田裕雄さんが亡くなって、弔問に行ったが、阿佐ヶ谷駅から行ったので、すぐ分かった。ところが、告別式と思って10時頃に行ったところ、疲れた顔の母と息子が家にカギを掛けて出かけるところだった。香典泥棒でもないしと、見つめると、「今日はお通夜で、これから銀行に行くところでした」との話だった。いろいろと、早とちりはしてきたが、葬儀の日取りを間違えるとは。「せっかくですから、仏の顔を見てやって下さい」と言われ、拝んで帰ってきた。短い期間しか会っていないが、覚えていた顔の面影が十分あった。
 やはり2年の時だったと思うが、東大の学力コンクールというのがあり、これは東大の学生のアルバイトの一つだったが、仙台の東北大学の校舎に受けに行った。ところが、朝御飯を抜いたせいか、試験会場で腹がグーグーと大きな音を立ててなるのだった。それで、穴があったら入りたいような気持ちになるほど恥ずかしくたまらず、問題にまともに取り組める状態でなかった。その高校で何番、その県で何番、全国で何番、志望校・志望コースの今回受験者中何番と順位が出てくるのだが、とても問題にならなかった。空きっ腹がボクの点数を押し下げた。フランス語の格言に、「飢えたる腹は耳持たず」という言葉がある。"衣食足りて礼節を知る"という意味だが、いやこの場合は、「腹が減っては戦ができず」の方がぴったりかな。
 昭和33年の3月高校を卒業した。卒業式は3月1日だったが、ボクは出なかった。母が行ったが、シベリウスの『フィンランディア』が演奏されて感激したそうだ。学生のオーケストラならたいしたことはなかろうが、母を感激させたのだ。ボクは上京していて、東大と東京外語フランス語科の入学試験を受けた。外語の一次試験は英語のみで、一次ではねられた。フランス語科は英語科よりはやさしかったはずだが。
  東大の方は、文科Ⅱ類を受けたが、こちらも駄目だった。しかし、不合格者に後日送ってきた書類を見たら、不合格者の中でのランクはAだった。その分布の割合は、聞かなかった。こうした制度は、希望者についてだけ開示することが復活したようである。こちとらは、可能性の有無など考えず、なんとなく初志貫徹といった雰囲気で、東京での浪人生活にはいることになった。中学の時の同級生高野公雄君は、高校の担任の教師明珍先生が浪人絶対反対の主義で東北大の工学部に進学した。当方も東北大出身の明珍先生だったら、二期校は福大の経済だったかもしれない。僕らの担任柴田先生は、一切そんなことは言わなかった。

浪人(東京)
 息子もそうだったようだが、浪人したら東京に出るというのは、自分の心の中で、アプリオリに決まっていたコースだった。(息子は、浪人せず18歳で大学に入ったが) 渋谷区本町3丁目の個人のお宅に下宿した。笹塚の近くになるのだろうが、新宿から京王バスで通った。まだ、副都心ができていなくて、おおきな淀橋浄水場があった。新宿からバスでNHKに行くと、当時のバスルートとダブルので、「十二社(そう)池の上、十二社(そう)池の下」というバス停の名前がアナウンスされる。それを聞くと、あの頃を思い出した。下宿に近い停留所の先には、T大の附属高校があった。双子の研究をするために、双子を入れるなどしていたところで、無論T大に入れる保証はなかった。4月に入ったのは、湯島聖堂の講堂を借りていた紅露外語学院という名前のマイナーな予備校だった。紅露文平という人が代表で、文部省の悪口ばかり言っていた。学校教育に関して課程という言葉を使うが、これは過程であるべきだとか。立ち上がりが遅くて、まともな予備校の入校の門は閉じられていたのである。Nという中学の同級生は、4月から駿台に通っていた。浪人したというショックで福島にかえって、時間を無為に過ごしていた小生は出し抜かれた。彼は駿台に入ったことをとても喜んでいたそうだ。
 紅露という人は、四国の人と聞いたような気がするが、まことに変な人だった。他の講義の内容もあまり感心しなかった。ただ、英語は語の語源を知るべきだというのが持論で、ラテン語のこういうものが変化して、こういう言葉になったのだという話は面白かった。丸善に行って、ETYMOLOGICAL DICTIONARYという大きな辞書を買ってきた。苦手な英語の入試で知らない単語が出てきたら想像力を働かせて類推しようと思った。
 昭和33年度が浪人した1年間だったが、その途中で、転居した。個人の下宿から、福島の天神町にあった酒屋さんが借りた東長崎の駅の近くのしもた屋である。福島高校の先輩で、一橋を受けて浪人している息子のために借りた家だった。Tというある歌舞伎役者の本名と同じ姓だった。部屋があったために、東北の大学生や浪人が他に2~3人いた。一橋志望の二浪は、我が輩の高校の1年先輩だったが、彼の従妹が時たま訪ねてきた。当時サンケイの編集局長だった佐藤という人の娘で美人だった。色が白く、鼻が高かった。何か、高貴な雰囲気の容貌だった。犯しがたいように思えるほど美しかった。『最後の記者バカ』という本を書いた佐藤さんは、サンケイの編集局長とあって、朝日ならともかく、父親には興味はなかったが、こんなきれいな人と結婚したいものだと真剣に思った。が、親しく話す機会はなく、親しく話す従兄弟を指をくわえて眺めていた。まず、どこかの大学に入ることが喫緊の課題だった。
 ボクが住んだのは、一番北側の4畳というウナギの寝床のような部屋だったが、西武池袋線の東長崎と椎名町の間にあって、踏切の警報機のウーッ!カンカンカンという音がうるさくて眠れなかった。しかし、不思議なもので、だんだん慣れて平気で眠れるようになった。一人の女中さんが居て、ご飯を作ってくれた。美空ひばりのファンで、日本人の歌手の中で一番マイクの使い方がうまいといっていた。ほめ言葉としては、ちょっと変だなと思った。猫が一匹いたが、一生どこの大学にも入れないのではないかという不安でノイローゼ気味となり、その猫を徹底的にいじめた。ぐるぐると回して三半規管を狂わせてから空に放り投げた。猫は高いところからでも上手に着地することができるのだが、目が回っていれば体操選手のような上手な着地はできないだろうという仮説を立て、それを追試することに精力を注いだ。他の人がいない昼に庭で熱心にやったのだが、その女中さんだけは、それを知っていた。だから、猫を相手にサド侯爵ぶりを発揮したボクを極端に嫌っていた。無論、当方が120パーセント悪かった。殺しはしなかったが、猫が化けて出ることはなかった。でも、何らかのたたりはあったのかもしれない。それほど、ひどいことをした。入試が2勝1敗の成績におわり、その家で参考書を焼いた。たいそう気分がよかった。これからは、自分の意志で読む本を選べるのだと思った。猫への償いはしなかったし、できなかった。今にして思えば、鰹節でも買ってやればよかった。他にもあるが、墓の下まで持って行くべき恥ずかしい所業の一つであった。
 結局は、Tもボクも第一志望の大学に入ったのだが、彼は会社に就職した後、早死にした。大変な西鉄ファンで、浪人の年の昭和33年の日本シリーズで、巨人と西鉄のどちらが優勝するかラーメンを賭けた。西鉄に賭けたのは、T一人だった。東北人の場合、ほとんどが巨人ファンであり、みんな巨人に賭けた。巨人が3連勝したが、その後西鉄が4連勝して、見事に逆転した。「神様・仏様・稲尾様」という言葉は、このときのものかもしれない。賭に勝ったのは彼だったのだが、感激のあまり、財布をはたいて、みんなにチャーシュー麺をおごった。そのころの一番のごちそうだった。何かの時には、男は気前のよいところを見せるべきだということを、その先輩に身をもって教えられた。わりと近くに立教大学があって、長嶋、杉浦、本屋敷が居たはずだが、東京六大学の野球には興味がなかった。この下宿には、会津高校出身の別のTという人もいて、この人もT大文Ⅰに合格した。そのご、Kキャンパスの正門の近くでばったり出くわし、「金を貸してくれ」といわれて、1,000円貸した。ところが、自分でも必要になって、貸したことを後悔した。後で返して貰ったが、カネがないというのは苦しいものだ。彼は、法務省に就職したが、司法試験には受かって居なかったので、局長にはなれなかったろう。
 東長崎に引っ越して通ったのは、駿台予備校である。当時は、高等なんていう大それた名前は付いて居なかったような気がする。二学期からの編入生を募集する試験があり、それを受けた。成績のよい順に、お茶の水の午前部、四谷校、お茶の水の午後部に入れた。我が輩はお茶の水の午後部だった。4月から、駿台に入っていたN君は、顔を合わせなかったので、午前の部だったのだろう。試験が近づくと、かれは予備校の授業が物足りなくなり、予備校を休んで自分で勉強していた。ボクは、最後まで予備校に通った。彼は、結局W大政経に進学した。
 駿台の方が紅露外語学院に比べて、できる人たちばかりだった。早めに行って場所を取った。熱心な人たちとは顔なじみになった。一人で福島にいたら、自殺でもしていたかもしれない。
 しかし、11月頃から、自分は一生どこの大学にも入れないのではないかという強迫観念に襲われた。そこで、身体に変調を来した。とにかく、ご飯を食べると下痢をするのである。東長崎から西武池袋線で池袋に行き、地下鉄丸ノ内線でお茶の水に行くのだが、その途中で、のべつまくなし下痢をするのである。そこで、地下鉄の新大塚、茗荷谷、後楽園、本郷三丁目、お茶の水の各駅のトイレの場所は、目をつぶっても行けるくらいに、覚えてしまった。それほど、深刻な現象だった。一生、この状態から脱出できないのではないかと思った。
 いつの間にか、それも治った。最終的に願書を出す直前だった。予備校仲間に、富山県伏木出身のF君という人がいた。この人とある時話さなかったら、ボクの運命は、変わっていただろう。彼と、どこを受けるかという話になった。 彼は、T大の文学部だという。「ボクも」というと、学科は仏文科、もしやと思って、なおも聞いてみると、「ボードレールをやる」というのではないか。思い上がっていた我が輩は、今この時点で、ボードレールの詩の真価が分かるのは、日本で自分ひとりしかいないと信じ切っていたのである。原文で読んだわけではなく、村上菊一郎訳の角川文庫版で読んだだけなのに。過剰反応というのか、その言葉でパッと方向転換をした。文学部や教育学部に進学する文科Ⅱ類から、法学部と経済学部に進む文科Ⅰ類に願書の提出先を変更したのである。当時は、偏差値などというものはなかったし、文科Ⅰ類でも受かるという保証はなかった。文科Ⅱ類なら合格するという確信もなかったので、そんな転身をしたのだろう。受験科目は、文科でも理科でも5教科8科目だった。予備校の最後の頃の授業で、東大の講師か何かで予備校の先生もしていた人の出した世界史の模試の問題と同じものが本番でも出た。これで、すっかり気をよくして、世界史で実力以上の力が発揮できたかもしれない。結局ボクの方は受かって、中学・高校が一緒のNがW大に入ったポイントは、これかもしれない。
 東長崎では、よく散歩をした。新宿、天沼、阿佐ヶ谷、中野などまで歩いた。高田馬場方面や下落合なども、散歩コースだった。千川か妙正寺川か、小さな川の堤防からは、新開地といった感じの住宅地が見えたが、こんな宙ぶらりんの状態から、本当に脱出できるのかなぁと考えたものだ。近くの古本屋で、ジャン・ジョレスの仏蘭西大革命史という何冊もある本を見つけ、買おうかと思ったが、結局買わなかった。
 大学時代、中学生2人の家庭教師をしたが、2人とも成績が下がって、ボクはクビになった。ボクの勉強の仕方は、他人には有効ではなかった。まず、古文は文法をしっかりとマスターすること。試験問題は文法を知っているかどうかをテストするだけのことである。数学は、高2の時の蛍雪時代の付録に国立一期校の過去問の問題と解答があり、5つか6つの問題とその解答を読んで書き写し、覚えた。「......であることを証明せよ」などという問題に、過不足なく答えるには、どうすればよいか途方に暮れたが、回答を読むと、その辺の呼吸が納得でき、更に探偵小説と同じで、いくつかのパターンに分けられることに気づいた。そして、結局数学の問題は、そのパターンのバリエーションに過ぎないことを見破ったのである。有理数であれば2乗すれば、0でない限り必ずプラスになるとか、bの2乗-4acの判定式とか、結局おなじみの公式のようなものの組み合わせに過ぎず、証明はシンプルに、数字はきれいに出れば、それは正解のしるしだった。英語は単語について、スペリングを紙に書くことで覚えた。発音は関係なく、英文和訳・和文英訳と紙に書いたものを見たり、英文を紙に書くので、目で単語を覚えるのは、紙に書きながら目に覚えさせるのが有効だった。知らない単語が出たときの用心にと、ギッシングの『ヘンリイ・ライクロフトの私記』という研究社の本を買って、辞書無しで読んだが、チンプンカンプンだった。世界史や日本史の年号も紙に書いて覚えた。
 受験したのは、早稲田の政経学部経済学科、慶応の経済学部、東大文科Ⅰ類だった。早稲田では大隈重信をほめ、慶応では福沢諭吉を賞賛した。後年、愚息がマスコミの就職試験対策として、マスコミ塾的なものに通った際、「憲法9条に関する小論文がでたら、模範解答は、朝日バージョンと読売バージョンとがあるんだ」と聞いてきたが、当方は何十年も前に、それを実践していた。しかし、早稲田には、合格できなかった。慶応にはパスしたが、肝心の国立一期校の方は、赤羽の伯母の家で布団の中でニッポン放送か何か民放のラジオで聞いた。「あ」から始まって、五十音で次々名前が呼び上げられたが、自分の姓の所はパスしてアナウンサーの読み上げが進行していった。思わず、ワッと泣き出してそのまま布団をかぶって、伯母が「どうしたの」という問いかけにも答えず、泣き寝入りしてしまった。そのまえに、福島で現金8万円を調達していた。母の実家から借りた金だった。入学金5万円と1年分の授業料3万円。慶応の入学手続きに必要なカネだった。翌朝、東大の教養部のある日吉に向かった。8万円を落とさないようにときどき学生服の上から押さえながら。赤羽から東横線の日吉に行くには、渋谷で乗り換える。省線電車で渋谷に着く寸前、「自分が落ちたんならいったいどんな奴が合格したんや。見てやろうじゃないか」という気が起きて、東横線に乗る前に、井の頭線に乗って東大前で降りた。駒場の合格者の受験番号が張り出されている掲示板の所に行って、1713だったと思うが、何の期待もせずに、そのあたりに目を走らせると、1713という番号が目に飛び込んできた。夢かと思って、本当に頬をつねってみた。やはり痛い。もちろん、あまり強くはつねっていないから、それなりの痛さだ。手続きは、そばの小屋のような建物の二階だった。夢ならさめないようにと祈りながら小走りに二階に上がって、受験票を差し出し、「あッ、これは駄目です」なんて、宮沢賢治の童話の『黄色いトマト』のように、言われることもなかった。無事、書類を受け取って、やっと喜びがこみ上げてきた。19年4ヶ月生きてきて、もっとも幸せな瞬間だった。死刑になる寸前、命が助かったドストエフスキーの気持ちには比べるべくもないが......。                                             有名大学は新聞の地方版に合格者の名前が載るので、最終的には、そのチャンスを無にすることはなかったであろう。しかし、K大に入学金と授業料を払ってしまえば、返してもらえなかったかもしれない。ボクは、ドジと笑われ、社会に対する不信感が僕の心に巣くったことだろう。なぜ僕の名前がラジオで呼ばれなかったのだろうか。おそらく、受験番号が、現役と浪人の順になっていて、現役の「あ」から「わ」のあとに、浪人の「あ」から「わ」となっていたのだろう。民法に「得べかりし利益」という言葉があるが、「失うべかりし損失」を防いだのだった。国立の方は、入学金が1,000円、授業料が9,000円だった。慶応は、それほど授業料が高くはなかったが、初年度納付でみると、国立大学は八分の一だった。
 こうして、福島での高校3年・東京での浪人1年の灰色の季節は終わった。東長崎の下宿に行って、参考書を庭で焼いた。これからは、自主的に選択する社会と人間を知るための好きな本が読めるんだという喜びとボクにこんな受験生生活を強いた受験制度への恨みがない交ぜになって、本の煙に目を細める僕の心を満たしていた。今にして思えば、暗い季節におさらばしたという清々した気分で、高校をはじめ、どこにもお礼などを言いに行くことはしなかった。あくまでも、常識はずれ、礼儀知らずのボクだった。安田講堂での入学式に出たいという母の要望を断ったのも、残酷な仕打ちだった。

大学(1・2年)
 大学に合格したので、寮に入ることにした。駒場寮と三鷹寮を申し込んだ。駒場に入ったらヨット部に、三鷹寮に入ったら馬術部に入ろうと思った。三鷹寮だったので馬術部に入った。部費が月500円で、野球部とともに最高だった。三鷹寮には馬場と馬房があり、馬術部は宿直の当番があって馬房の一角にある部屋に泊まった。万一火事があったときには馬栓棒を外して我々の伴侶である馬の命を助けるために泊まったのである。何年もたってからだったが、確か成蹊大学の馬房が火事になり、何頭かの馬が焼け死んだというニュースを聞いた。なんということをしたのか、馬鹿な奴らだと思ったものである。
 福島で一夏合宿に参加したので、最初はほかの新人よりは、うまく乗れたのだが、そのうち付け焼き刃がはがれて、結局障害飛越の技術をマスターできなかった。馬術部の部活のため、本郷で新聞研究所のゼミを取れないなど犠牲も多かった。また、気のあった友達もできなかった。先輩後輩の上下関係も一応味わったが、結局は勝つために協力し合うというエートスになじめなかった。3年の夏休みの後、馬術部は辞めてしまった。3年の夏、北大で七帝戦という旧帝大の、ということは比較的馬術は弱い国立大の試合があり、同学年の女子学生が試合中落馬をした。頭の中で出血して、頭蓋骨と脳の間に血餅という固まりがドンドンできた。止血したうえで、その餅を除去しないと命に関わるということで、開頭する手術を受けた。その際、その場にいた最上級生なのに、後から来たキャプテンらに軽視されたような気がして、それが直接の引き金だった。しかし、実際はうまくなれないので、見切りを付けたのだった。                      
 彼女は北大の構内の馬場での試合中に落馬、大会委員長の歯医者だったか何かが見て、これはイカンと同じキャンパスの中の北大病院に担ぎ込んだ。たまたま脳外科の手術の予定があって、その患者と急遽入れ替え、緊急の手術をした。執刀したのはカナダ帰りの専門医で本当にラッキーだった。当時『ベン・ケーシー』というテレビドラマが放映されていた。正に、北海道の和製ベン・ケーシーによって彼女の命は救われたのである。彼女は1年留年して卒業して、労働省に入り、憲政史上初の女性事務次官になった。その後伊太利亜国駐箚特命全権大使に任命された。「もし、七帝戦の会場が帯広畜産大学だったら、血餅などということは彼女を見た医者も気づかず、彼女は助からなかっただろう」とは、誰かが言っていた。その場合は、史上初の女性事務次官も誕生しなかったかもしれない。
 勉強の方は、大学の合格で、気が抜けてしまって身が入らなかった。新入生を待っていたのは、オリエンテーションというものだった。光は東方よりという言葉があるが、オリエントには始めるというニュアンスを持たせているらしい。きいていても、チンプンカンプンだった。授業の名前で、論理学と倫理学というのがあったが、どう違うのかも分からなかった。倫理学というのは、宗教のにおいのするような気がして、その授業の行われている教室のそばは小走りに通り過ぎた。文Ⅰ15Dというクラスになった。第二外国語はドイツ語を取る学生がほとんどだったが、小生はボードレールかぶれの後遺症でフランス語を選択した。思えば、高校時代から第三書房(書院?)のフランス語の文法の本を買ったり、修学旅行に行くのを拒否して、返ってきた積立金の2万円でリンガフォンのフランス語会話のレコードを買っていたりした我が輩なのである。そのため、フランス語の授業は割と得意で、滝田文一郎という助教授の試験では問題文の中の誤りを指摘した先生の鼻をあかしたこともあった。文Ⅰは、その気になれば文学部に進学することもできたので、仏文科に行くことも可能だった。中学・高校のクラスメイトで、一足先に理Ⅰに入っていたMは安保闘争で盛り上がっていた学生運動のリーダー格で、「法学部に進む文Ⅰの学生は安保闘争の学生運動に積極的でない。けしからん」と言って、我が輩が文学部を志望するように、盛んにけしかけた。しかし、学生運動にのめり込むつもりはなかったし、そのころは、彼の後をついて行く態勢にはなかった。
 仏蘭西文学には興味があったので、駒場のキャンパスで平井教授の姿を見かけて、質問をしたことがある。平井啓治だか啓二だが本名だが、啓之というのがペンネームだった。多分サルトルかカミュについて聞いたのだと思うが、関西弁の彼は五月蠅そうな顔をして、おざなりの答えしか返ってこなかった。無論ペダンチックで的はずれの質問だったのだろう。万一、彼がお世辞でも好意的に対応してくれたら、仏文科に行っていたかもしれないのだが、現実はそうではなかった。
 駒場のキャンパスでは、いつも腹を空かしていた。自宅生だったら別だったのだろうが、カネが無くて腹に入るものの量は需要に追いつかなかった。生協の食堂では、ラーメンが30円で、経済ラーメンが25円だった。後者はチャーシューがないものである。しかし、ラーメンなどでは、夕方までもたなかった。入学して半年後に三鷹寮を出て、中野に下宿をした。国電で新宿に出て、山手線で渋谷まで行き、京王井の頭線で東大前へ通った。定期があるので、昼飯は渋谷の恋文横丁まで行って、湯麺やチャーハンを食べた。50円だった。50円玉を握って、毎日暮らしていたような気がする。後年、西荻に住んでNHKまで通ったが、中央線の各駅停車で新宿まで行き、山手線に乗り換えるのは、このときと同じで、ちっとも進歩していないなと苦笑した。
 三鷹寮での生活が半年で終わったのは、プライバシーが保てないためだった。三鷹寮では最初、廊下を隔てて寝室と勉強スペースのある棟に入ったが、まもなく南寮という新しい棟が完成し、抽選で当たって新しい方に移った。前者も一部屋に何人かで住むのだが、南寮は勉強のスペースと寝室が一つになっており、壁に沿って両側にあった二段ベッドにはカーテンしか、しきりがなかった。当方は、馬術部だったし、早寝早起きの方だったので、もともとほかの3人のルームメイトとは、起床・就寝のタイミングはずれていたのだが、かれらは勉強だけならまだしも、部屋が板張りで真ん中にスペースがあったのを幸い、社交ダンスの練習に励んでいた。カーテンでは、音をシャットダウンできず、眠れなくて、辛い思いをした。彼らの踏むステップは、午前0時を過ぎてもやむことはなく、熱狂的に続いた。その時に彼らがかけたレコードのリズムとメロディーは親の敵のように我が輩の脳みそにしみこんだ。ラ・クンパルシータなどを作曲した奴は、犬に食われて死んでしまえと思っていた。踊りやすいのか、タンゴをかけることが多かった。こういう環境に耐えかねて、金はかかるし、馬術をやるのには不便だったのだが、寮を出た。
 寮に住んでいたときに、LPを聞ける部屋があった。誰かに、「僕はチャイコフスキーが好きだ」と言ったら、「T大生はチャイコフスキーが好きだなどといってはいけない。バッハかベートーベンを挙げなくてはならない」と言われた。その意味はなぜか分からない。窮屈なものである。又、「出身の大学は」と聞かれて、「東大」というような局面も、なるべく避けるべきだという雰囲気もあった。どこかの大学を出るのだから、なぜ言っていけないのか、そんなことにこだわる方がオカシイとも思うのだが......。もっとも、馬術部同期のY君が新宿の歌声喫茶に行って、『ああ玉杯に花受けて』をリクエストし、大いにひんしゅくを買ったという。リクエストしたのは、分かる気がしたが、得意がるのは美学に反するのだ。難関を突破して、天にも昇る気持ちから、そんなことをしたくなるのはボクだって同じだったのだが、Yクンの行動が お粗末と思ったものだ。
 三鷹寮にいたときに、三鷹寮のことが朝日新聞の夕刊のトップになったことがある。「T大生ふられる」という見出しの記事だった。東京女子大に三鷹寮を代表すると称してか、合ハイを申し込んだ男が居て、それが断られたという内容だった。西荻窪駅からJRに乗るときに、バス停で東女(トンジョ)の学生らしきマドモワゼルをみかけると、このときのことを思い出す。昔は白いチャペルのせいか、あか抜けした素敵なjenne fillesの園のように思っていたが、バス停でバスを待つ彼女らは、それほど素敵には見えない。また、2~3回東女で行われた社会人講座というのに参加した。各10回ずつ善福寺のキャンパスに通ったが、デートを申し込みたくなるような娘は見あたらなかった。素敵な女性は、あまりキャンパスには来ないのかもしれない。
 馬術の試合があると、よく馬事公苑にいったりした。又、三鷹の馬場でも、暇なときに先輩後輩らとだべった。そんなときに、ボクは「ノートリアスでも後世に名の残る存在になりたい」と言って、笑われた。死んでしまえば永遠に意識がなくなる、それならせめて人の口の端に上りたいものと思ったからだった。同期の岡光序治君は、涜職のとがで縄目の恥をさらした。奥さんまで非難された。あんな個人的なものでなくて、たとえば歌舞伎で言う国崩しといったものになってみたいみのだと思ったのである。例えばヒトラーのような。
 また、1年先輩の文学部の人で、「女は、所詮性欲の対象でしかない」と喝破した人もいた。どんな女と結婚したのか、彼の性欲の対象になった女性の顔を見てやりたいが、人間あまりタテマエだけで突っ張っていてもしょうがないということか。そんな下らないことしか、馬術部員との会話で記憶しているものはない。
 安保と理恵ちゃん
警職法反対というときには、よく分からなかったが、1960年になると、安保問題が我々の周りにも迫ってきた。樺美智子さんの死んだ日など学生のデモが盛んに行われ、2~3回に一回はデモに参加した。純真だったのか、政治を変えるには民衆がきちんと意思表示をする必要があり、知識人の予備軍の大学生は大衆の先頭に立って、或いは大衆を決起させるために行動する義務があると感じていた。捕まったことはなかったし、機動隊員の靴で蹴られたこともなかった。イヤになると途中で隊列を抜けて帰ってしまった。日比谷公園の野外音楽堂で集会をして、南側に出て、その後通産省になった建物が、当時は防衛庁が入っていて、そこで気合いを入れてシュプレヒコールをした後、左折して大蔵省や郵政省の前を通り、文部省のところで左折して、新橋の土橋で流れ解散というコースが多かった。日比谷公園の中に行くと、あの頃を思い出して、鼻の奥がジーンとしてくる。日比谷公園の野外音楽堂では、ギリ研(ギリシャ悲劇研究会)の公演を観劇したこともある。オイディプス王の話だったような気がする。内容はよく分からなかったが、コロスらしいものがちゃんといた。この時点で、のめり込めば、野田秀樹のようになっていたかもしれない。まあどうみても、小椋桂や加藤登紀子になれなかったのは、もちろんである。
 この年、もう一つ忘れられないことがあった。父の義姉の次女は、私のもっとも好きな従姉だった。その従姉の長女が再生不良性貧血-急性骨髄性白血病にかかった。新宿区河田町の東京女子医大付属病院に入院していたので、何回か見舞いに行った。そのうち、何の理由か退院したので、従姉の家に見舞いに行った。学生だったし、いたずらに心配させてもということか、詳しいことは教えてもらえなかったが、細菌感染を極端におそれたり、一旦血が出たら止まらないからと警戒したり、すごくピリピリしていた。桜桃忌の頃だったのか、その子がサクランボが食べたいと言ったらしい。母親が消化が悪いからと、ひとつひとつ皮をむいて食べさせていた。あんなに小さいサクランボを......
 あるとき、顔もむくんでしまって、元気もなくなって居たので、自分の部屋で寝ている彼女に会わないで帰ろうとしたら、「たっちゃちゃんに、ご挨拶したい」と言っていると言われて、顔を見て帰った。それが最後だったのかもしれない。7月20日に亡くなった。そんな重篤な状態だったことを、ボクには伏せていたのだった。4歳10ケ月の一生だったが、20歳くらいの人間と対峙しているような感じだった。家は杉並区なので、堀之内の斎場で火葬した。骨になるのを待合室で待っていると、もう言葉どおり永遠にこの子に会えないのだという思いがこみ上げてきた。何とも悲しくなって、どうしても涙が次から次から湧いてきて止まらなかった。泣いていたのは、ボクだけだった。おじやおば、他の従兄弟達は怪訝な顔をし、次女を妊娠して大きな腹が目立ち始めた従姉が、じっと悲しみをこらえていた。ここを記述しているとき、偶然だが最初の孫娘がまもなく4歳9ヶ月になろうとしている。あのころの理恵ちゃんは、こんなに大人っぽい段階だったのかと、孫の言動を見るとハッとすることがある。理恵ちゃんにはなけなしの財布をはたいて、伊勢丹でコッカースパニエルのぬいぐるみを買って、プレゼントした。とても、喜んでくれたように思えた。
 その子の通夜か葬式の時、従姉の家で鰻丼を取ったら4~5個も余ってしまった。トップちゃんという小さな犬を飼っていたが、その犬にやると、あっという間に、全部平らげてしまって、ちょっとだけ糞をした。まことに効率的な生きたディスポーザーであった。その後、小生がトップちゃんの散歩を引き受けた際に、行方を見失ってしまい、世田谷の捕獲された野犬の抑留所にも行ったが、ついに戻ってこなかった。娘の思い出に結びつく要素があったのかどうかを確かめなかったが、あったとすれば当方のいたたまれなさは、一段と増したことだろう。その子の父親の「親としては、子供の命を守るのが最優先の義務だ。それなのに、それをしてやれなかったのが、本当に残念だ」その子の母親の「雨が降ると、どこかで困って居るんじゃないかなんて考えてしまうのよ」という言葉は、今でも覚えている。もう半世紀近くも昔のことなのだが......。その子のお墓は、練馬駅の北の広徳寺にある。もともと、下町にあった寺で、関東大震災か東京大空襲の後に引っ越してきたという。彼女の父は、「子供の頃は、『おそれ入谷の鬼子母神、ごめん下谷の広徳寺』と言ったものだ。鬼子母神と並び称されるほどの有名な寺だった」と話していた。
 「神が存在しないとすれば、それを作る必要がある」と言った人がいるらしい。ヴォルテール辺りではないかと思うが、彼の本を走り読みしても、どこに書いてあるか見つけられなかった。ドストエフスキーの小説に出てきたような気がするのだ。私は、その幼女が死んだとき、もし神が居ると言う人が居るとしても、僕は信じないと思った。全知全能の神であれば、こんな残酷なことをするはずがないと。    
 また、人間は死ぬ以上、人文科学を研究しても、解決不可能なこの壁に突き当たるだろうと思った。人間が互いに作る社会のあり方について研究するなら解決法が見つかれば、それに沿って操作することも可能なので、社会科学の方が学ぶ意味があると思ったのである。しかし、今にして思えば、そうした立場を貫くのであれば土木工学を専攻して黒部ダムでも作る方がよいということになるのかもしれない。或いは、医学を学んで死に至る病の原因を発見し、有効な治療を施すとともに、助からない場合は、1ヶ月でも10日でも延命するような医師になればよかったということになるのかもしれない。
 1960年は、三池闘争なども含めて、日本にとってエポックメーキングな年だったが、ボクにも大きな衝撃を与えた。理恵ちゃんの無惨な余りにも早すぎる死と安保闘争の果実なき収束である。特攻帰りなどの教師に教えられた我らは、"少国民"ではなく、"少市民"だった。新市民主義という言葉の定義は分からなかったが、国民が政治について意思表示をするのは当然だという思いがデモに出かけるボク達にはあった。28万人の学生・労働者・市民が国会の外に押しかけたという事実が日本の政治も変わるという幻想をボクに抱かせたのである。夏休み家に帰って現役で福島大学教育学部に入って3年生だった小・中の同級生の女性と会った際、「折角いい大学に入ったのに逮捕されるかもしれないデモになんかなぜ行くの」と言われて、唖然とした。二の句が継げなかった。学生は前衛であり、『帰郷運動』で地方にも安保反対の運動を浸透させる必要があると、ノンポリのボクでさえ感じていたのだが、考える余裕のない低学歴の労働者は別として、のんびり大学に通う学生でもこうなのかと、そこで見切りをつければよかったのだ。
 樺さんが死んであんなに盛り上がったように見えた"安保闘争"は低姿勢と称する池田勇人が岸信介の代わりの総理大臣になると、雲散霧消してしまった。韓国なら、もっとしつこく運動が続いたかもしれないが、日本人は熱しやすく、さめやすいのだろうか。Rちゃんの死で、人文科学には見切りをつけたが、安保闘争の幕切れをみて、政府にも総評にも無縁のオブザーバーになろうという気持ちが芽生えていたのかもしれない。理恵ちゃんの父親は新劇人だったが、「国会へデモ行進にいった際、右翼とおぼしき一隊が角材に5寸釘を打ったもので新劇の女優らに振り回し、学生らがそれに対抗するための実力行使に出た。それなのに、テレビのニュースでは、まず学生が暴力的な行為を仕掛けたように伝えられた」と憤慨していた。それを聞いて、マス・メディアがこれからの社会の重要な主役の一つだと感じ、この漠然とした思いがその後に尾を引いていたのかもしれない。

 家庭教師失格
 2人の中学生の家庭教師をしたが、2人とも僕が担当してから成績が下がったとして、家庭教師をクビになった。2人とも、ちょっと甘えんぼうの子供だった。一人は、こちらが家庭教師としていっても、一緒にテレビを見てしまうことが多くて、実際の勉強は進まなかった。『ローハイド』や『ララミー牧場』、『サンセット77』など、アメリカもののドラマがメインだった。もうひとりは福島出身の人の孫で、そこに住み込んだが、これもちっとも勉強が進展しなかった。なにしろ、当方の受験勉強の手法はユニークで、普通の子には適用でないものだった。それを、適用させようとしたので、所詮無理だったのだ。こちらが教育学部か何かならともかく、面倒でその子にぴったりの指導法など考えるつもりはなかった。当方の受験勉強の手法は、浪人時代の部分に記述した。住み込みの家庭教師をしていたこともあって、3年の時に北海道旅行をしたが、然別湖を見ないで帰ってきた。すれ違う旅行者が全員行けと言ってくれたのだが。後者の家庭教師の首切りは二段階だった。まず、茗荷谷の家から追い出されて、持ち家の中野駅北口の部屋に住んで、茗荷谷に通うようになり、その後家庭教師を断られて、その部屋も出た。すっかりアルバイトというものに嫌気がさして、こんな魂を売るようなことをするものかと決心した。金がかからないので、再度大学の寮に入った。田無にあった寮で、西武池袋線のひばりヶ丘にバスで出て、地下鉄丸ノ内線で、本郷三丁目に出た。坂本先生と一緒になって、林健太郎とすれ違ったのは、この通学経路での出来事である。
 

 

大学(3・4年)
 専門学部に進学する際、安保闘争の体験のせいで法学部の政治コースを志望した。法学部は、公務員や会社への就職を目指す人の行く公法コース、司法試験を受ける人が行く私法コース、丸山真男に会いたい人が行く政治コースと三つに分かれていた。正式には、私法コースが一類、公法コースが二類、政治コースは三類だったと思う。そのご、朝日に入るには朝日の空気を吸っておいた方がよいといわれ、世論調査のアルバイトをしたが、その際に知り合った慶応の法学部の学生は自己紹介をする際に、阿呆学部お世辞学科ですと言っていた。当方は、阿呆学部お世辞コースということになる。コースに分かれているといっても授業やゼミは共通で、違うのは必修科目だけだった。どのコースも憲法や民法の1部・2部・3部は必修だったが、政治コースは刑法や商法は選択科目であり、その代わり政治学、日本政治外交史、政治史、アメリカ政治外交史、政治学史、経済学原論、財政学などが必修科目だった。法医学という選択科目もあったが、死体の解剖を見ると気分が悪くなるような気がして、取らなかった。記者になるのだったら、取ればよかった。『空想から科学へ』に感激した小生は、経済学部の方が向いていたのだろうが、せっかく、文Ⅰに入れたのだからと、法学部を選んだのだ。丸山先生の本にも興味を持った。
法律""
 法律では優がほとんどなかった我が輩がいうのは、"ひかれものの小唄"の感があるが、法学は学問ではないと考えざるをえなかった。それは、加藤一郎教授の民法1・2・3部の講義を聴いたからだった。原則があって、それを拡大解釈或いは類推解釈するか、反対解釈するか、(厳密に)文理解釈するか、いずれにしても数学の公理とも言うべき法律そのものに内在しているはずで、それを学ぶのが法律学だと思っていた。ところが加藤さんの言う"姥桜判決"を聞いて、なんといい加減なものよと呆れてしまったのである。それは、同棲したものの結局は捨てられてしまった女性が、慰謝料を貰う権利があるかどうかが争われたもので、裁判所は彼女を勝たせるのだが、彼女に勝たせるために考え出した理屈が、両者の間には、婚姻の予約が成立していたのであり、その予約にもかかわらず婚姻を実行しなかった点で債務を履行していないので、損害賠償の責任を負うべきだという理論構成なのである。これが団藤重光教授の刑法ならそうはならない。盗電した人がいても、窃盗罪はものを盗むことが構成要件になっているのだから、電気がものであるとはっきり規定されていない以上、窃盗罪が成立するとは、罪刑法定主義の立場から言えないとするのである。盗電した場合は、その後「電気はものなり」との規定が付け加えられるまでは犯罪ではなかった。それに対して、大岡裁きの実子かどうか判定するのに子供の手を2人に引っ張らせるみたいな、幾何で言えば意外なところに魔法の補助線を引いて証明するような姥桜判決の理論構成は、正に三百代言のこじつけだとしか思えず、失望したのだった。馬術部の2年先輩から加藤教授の先生である我妻栄先生著の民法に関する参考書をもらったものの、薬石効なく民法の成績は、良が2個可が1個で惨憺たるものだった。そうした日本の司法が民法を扱ってきた扱い方に対する我が輩の不満が答案用紙の行間から立ち上っていたに違いない。
 その後、NHKで解説委員室のディレクターから別の部に転出する際に、Kという女性がアナウンス室から解説委員になって転入してきた。この人の旧姓は加藤で加藤先生のお嬢さんだった。その後、民主党に担がれて参議院議員になり、衆議院議員に転じた。彼女とは、言葉を交わす機会はなかったが、彼女が別れた亭主(なぜか、今でも姓はそれを名乗っている)とは、その後勤務先が一緒になった。頭ははげてしまったが、なかなかエネルギッシュなマッチョだった。
  法律では加藤先生の授業しか覚えていない。「諸君が友達と賭博をして負けたとする。これは相手から見れば不法原因給付になるので払わなくてよい。但し、友達を失うことになる」「古代ローマの格言には、"法律家は悪しき隣人である"というものがある」などである。後者は、イエーリンクの『権利のための闘争』だったかに、「権利の上に眠るもの」という表現があり、自分の権利を守るためには不断に闘っていかなくてはいけないのだということを諭すものなのだが、それをあまりやると角が立つということを、わかりやすく説明しようとしたのだろうか。25番か31番の大教室なのに、そんな少人数の人に言うようなことを話していた。ある時、先生が後ろの入り口から入ってきて、演壇に向かったので、六法全書やノートを机の上に広げて、メモをしようと待ちかまえていたら、様子がおかしい。講義が始まらないのである。亀が周りの様子をうかがうように、そっとクビを上げてみると、体格がよく背の高い先生が真っ赤になって怒っている。五~六百人は入る大教室の真ん中当たりから紫煙が立ち上っているのを見とがめたのである。「諸君は、ここで法律を学んでいるのである。法律とは何か、それは社会の構成員の守るルールである。この教室の後ろには、禁煙と書かれた紙が貼ってある。従って、ここではたばこを吸わないというルールがあって、諸君はそのルールを守ってこの講義に参加している。法律を学ぶものが、基本的なルールを守らなくては、法律を学ぶ資格はない......」我が輩はたばこを吸っていたわけではないが、出て行けと怒鳴られるのでないかと思って、震え上がったものである。ところが、次の瞬間、先生の声色がぱっと変化し、「......とガンチャンと言われた末広厳太郎先生は言ったものだ」と言った。そして、その後は、いつもの講義だった。法律の授業というと、これしか思い出せない。

政治学
 丸山先生は、私(あるいは私以外にもいたのかもしれない)が政治コースを選んだのは、その人の講義が聴けるからだったのに、丁度我々が本郷に進学したときに、アメリカの大学に研究のために出かけていった。裏切られたような気がした。その後、学生紛争のあおりで、彼は幸せな学究生活を全うできなかったように記憶しているが、それほど同情もしなかった。先生が、僕らが本郷に進学するときにいなくなることが分かったので、2年生の時本郷に出かけて、  23番教室で、先生の「東洋政治思想史」の授業を聞いた。小さい声で、ぼそぼそ言っていて、『現代政治の思想と行動』の論文集にあるような、かっこいい叙述の著者とは思えなかった。また、山上会議所で開かれた「丸山先生を囲む会」にでたりした。政治コース談話会では、よく**先生を囲む会を開いた。何しろ、会の名前が、政治コース談話会なのだ。
 そこで、記憶に残っているのは、「丸山先生の座右の銘は何ですか」と聞いたのに対して、「初心忘るべからず」と答えたことだった。やはり昔の人だから、漢詩的な素養が古層というのか、基盤にあるのだ。彼の父君は丸山幹治という毎日の記者で余録を書いていた人だった(ような気がするが、記憶違いかもしれない)。学生時代に、「法律を専攻しろ」と言われたという。「政治や経済は面白いから、自分でも勉強できる。だから法律を専攻するべきだ」といったそうな。しかし、南原先生の弟子なのだから、結局は法律学科でなく、政治学科に進んだのだろう。また、当時チャップリンの『独裁者』という映画が上映されたことに関して、「ナチスの存在していた時代に、よくああいう映画が作れた。その勇気に感服する」という趣旨のことを言った。喜劇としては、それほど滑稽でもないし、何で先生は、それほどまでに賞賛するのだろうと怪訝な思いがした。軍部が睨みをきかせていた戦前の空気を、我々は、けっして実感できないだろうと感じた。「本富士署の前を通ると警官の拷問にあって学生が悲鳴を上げる声が聞こえた」とか、「正門前の喫茶店『白十字』では、客の中にスパイが居て学生の会話に耳をすませていた」とも言っていた。安保闘争が空振りに終わって、喪失感で身体の中を風が吹くような気がしていたボクは、田宮虎彦の小説に、戦前の暗い時代を描いたものがあったっけと、丸山先生の話を聞いて、思い出したりしていた。
 先生がチャップリンのことをほめたのは、英米はヒトラーに対抗していたのだから、作ることに障害はなかったのではないかと思ったのだが、ミュンヘン宥和などもあり、対抗する側も締め付けが厳しかったり、いろいろな面で上からの統制が強化されたりするのは、枢軸国でなくとも傾向としてあったと考えると、たしかにスゴイことだったのかもしれない。
 ゼミ
 本郷では、篠原一・坂本義和・福田歓一先生のゼミに参加した。辻清明先生の行政学のゼミや新聞研究所のゼミにも参加したかったが、馬術部の関係などで断念した。
 篠原先生のゼミは、政治社会学といったタイトルでアーモンドという人の本を読んだ。テーマを決めて、リポートした。我が輩は、福島に帰って、自由民主党の組織というタイトルで報告した。当時自民党の県議だった渡部恒三が県連の政調会長を務めていて、福島民報社の記者だった叔父の紹介であって話を聞いた。彼は「自民党には組織といったものはない。県民全体から社会党の組織と共産党の組織を引いたものが、即ち自民党の組織である」と言った。ゼミで発表しても誰も感心しなかった。故郷の鳥取に帰って憲法意識について調査し報告したYは高い評価を受け、東大新聞にも内容が紹介された。また、杉並母の会の水爆禁止運動についてのリポートも印象に残った。前者をリポートした男は自治省に入り、後者を報告した男はNHKに経営管理要員(事務)として入った。
 篠原さんか坂本さんのゼミで、その後、父親の跡を継いで代議士になり、自民党幹事長を務めたKと一緒だったような気がする。彼は、Yに吉田茂の『回想十年』を貸した。それを返すときに、居合わせたので、ボクにも貸してくれと言ったら、断られた。非常に傷ついた。その後彼は味噌を付けて、議員辞職した。ざまあみろと思ったが、その後たちまちカムバックした。1月末に山形で行われた知事選では独自候補を立てて多選・高齢の現職を追い落とし、「"加藤の乱"地元では成功」と揶揄された。株が落ちたままで終わるのか、或いは、加藤友三郎、加藤高明に続く3人目の加藤姓の総理になれるのかどうかは、今の時点でははっきりしていない。
 福田さんの政治思想史に関するゼミは原書講読だった。テキストは、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』。フランス語で読んだ。キビータスとかポリスとかラテン語やギリシャ語が出てきてチンプンカンプンだった。それでも、一番学問らしいものに接近したのは、このときだったのかもしれない。その後、NHKで名物記者だったOさんから「君も福田歓一に習ったんだって」といわれたことがある。岩波の政治学年報が会員向けのみの出版物になるという噂が出て、それを購入するために日本政治学会員になった際、当時明治学院大学の教授をしていた福田さんと坂本さんに推薦人になって貰った。しかし、残念ながら優秀な学生ではなかったので、覚えていたはずはなかった。篠原さんのゼミだったか、六本さんという1年留年した人がいて、この人は実に的確に講読する本の叙述の意味や問題点を指摘し、師範代のようだった。その後彼は法社会学の教授になった。
 三人の教授のゼミに参加したことがボクにどれだけのメリットを与えてくれたのかは分からない。しかし、どれかのゼミで一緒になったKから「NHKが面接と小論文だけで採用する」という話しを本郷キャンパスで聞いたのが、ボクの一生を大きく左右した。あの頃は、4年の春から夏にかけて就職先を決めるのが普通だった。優の数が少なくて公務員試験に受かっても、大蔵、通産などの一流官庁に行けないことは分かっていたので、公務員試験は受けなかった。マス・メディアに行きたいという気持ちはあったが、時事問題や常識にはまったく自信がなかった。
 3年生の頃、朝日新聞に入りたいような気がして、福島の父に相談したところ、福島支局長をしていたことのある斎藤さんという人を紹介してくれた。斎藤さんに会うと、朝日新聞の空気を知っておくことがプラスになるだろうといって、アルバイトをするように勧めてくれた。それで、世論調査のアルバイトをした。
 そのころの朝日は有楽町に社屋があった。今は映画館などがあるマリオンの所である。世論調査室は記者をしていて身体をこわした人などのたまり場だった。ボクから見て、どうにも美人とは思えない人でもアルバイトの若い女性には、お嬢さん、お嬢さんと下にも置かない待遇だった。記者としての鋭い感覚などを披瀝する人はいなかったので、朝日に入りたいという意欲はそれほど湧かなかった。古き良き時代で、朝日とか大学生は一定の尊敬が得られた。世論調査をしても、あまり本質的な拒否はなかった。うちは、朝日は取っていないという人もいたが、基本的には調査に応じてくれたものである。中野か杉並を担当したこともあったが、家を見つけるのが大変だった。ゼンリンの住宅地図が当時あったのだろうか。あっても、ゼロックスはなかっただろう。とにかく、住宅地図などは、学生バイトには、渡されなかった。12人か15人の名前と住所を書いたリストを持って現場に行くのだった。
 何回目かに、江東区の大島(おおじま)の調査を担当した。二日間でやれということだったが、前日もヒマだったので現地に行き、調査対象者の家を調べた。八割方分かった。このため、当日は順調に調査が進み、進捗状況を社内にいる社員か先輩格のバイト生に報告するのだが、彼らがそのスムーズさに吃驚しているのが電話口の向こうから伝わってきた。小学校で算数のテストの際に、半分の時間で仕上げて教室を後にしたときの爽快な気分を思い出した。インチキしているのではないかと思ったらしいが、どうやって確かめたのか、そうでないと分かると次からは社内でのデスクのような役割を担当するようになった。しかし、国政選挙など世論調査のあるときにしか縁がなかったので、朝日を受けるためのノウハウの取得にまでは結びつかなかった。何となくキザな偽悪者の多い職場だなと思った程度だった。胃をこわして胃潰瘍で手術をした元記者などが多かったが、腹を切るのは記者の勲章などと粋がっていた。ボクにはナンセンスとしか思えなかった。出稿部でデスク補助のバイトでもすれば、あるいは記者の実態が覗けただろう。 
 結局、6月だったか8月だったか、NHKへの就職が内定した。T大の法学部の学生は、小論文と面接のみで採用するという情報を仕入れてきたKは、経営管理要員で入局し、最後は監事事務局の局長になった。前述のように、政治学のゼミで杉並の母親たちの原水爆禁止運動をリポートした彼は、体に自信がないと記者の道を選ばずに、経営管理要員のコースを選択したのであった。記者かPD(番組制作要員)か事務を担当する経営管理要員の三つのコースがあった。
 小論文のテーマは、「1か2分の1大政党制」ということにした。民主主義は競争原理を前提にしている。それには、政権交代の可能性がなければならない。国民が、A党かB党か自由に選べるという状況にならなければ、政党に国民の方を向いた政治をさせるような力が働くことにならないと痛感していた。面接では、マルキシズムにも耳を傾けるべき点があるなどと、逆説的なことを述べて、個性を発揮したつもりになっていた。それで、ダメかなと思ったが、内定した。しかし、他の会社を絶対に受けないようにと言われた。相当迷ったが、こそこそと立ち回るのはイヤだと思って、朝日は受けなかった。協会は、他社の青田買いで優秀な人材が採れていないのかもしれないと疑心暗鬼になって、テスト的に青田買いをやってみたのだろう。ボクに関しては、その試みが成功したのであろうか。
 大学の後半は、田無にあった大学の寮に入った。2人部屋でOという人と一緒だった。彼は、安保闘争のデモの際、警官が投げた催涙弾がコートの襟首から入って衣類と体の間に入り、そこで爆発したためにやけどを負ったということで、警察を憎悪していた。政治コースの友達の中に警察庁に入ったやつもいるが、当方は警察に入ることは考えなかった。アルバイトをするのは自分の魂を切り売りするような気がして、一切やらなかった。その代わり、寮の畳の部屋に寝ころんで、ひたすら本を読んだ。何を読んだのか覚えてはいないが、久保栄の『火山灰地』を読んだのは覚えている。もし、自分に自信があれば、民藝か俳優座の門をたたいて演出家を目指していたかもしれない。たぶん大成はできなかったろう。こらえ性がない僕には無理な仕事だった。学校へはバスで「ひばりヶ丘」に出て、西武池袋線で池袋まで行き、地下鉄丸ノ内線で本郷三丁目に出たのだが、浪人時代の後半、東長崎からお茶の水に通ったのと共通するルートだった。浪人時代は、どこの大学にも入れないのではないかという強烈な不安感にさいなまれたものだったが、大学時代の後半は、むろんそうしたものはなかった。しかし、優を取ることは苦手だったので、4年間で90単位を取れず、留年するかもしれないと心配しても当然だったのだが、なぜかそんなことには思いが至らなかった。
 寮に入っている先輩の中には、大学院生もいた。なかには、指導教官が外国に行ってしまって卒業できないという気の毒な人もいた。また、寮では食事が残ると「残食」といって10円で食べられたが、僕は食べたことはない。また、金に困って学生証を500円で質入れもできたが、質屋の前まで行って止めた。結局、一度も質屋を利用しなかった。
 旅行
 馬術部の先輩は「学生時代に借金をしてでも、旅行をしておけ」と行っていた。就職してしまうと、どうしても自由な時間がなくなるし、たとい野宿してでも、安く旅ができるのは学生時代だけだからということだったようだ。我が輩も釜石だったか駅のベンチで一夜を明かしたことがある。木のベンチで体が痛い上、隙間から冷たい風があがってきて寒かったので、とても寝た気分にならなかった(奇しくも後年盛岡に4年住んだので、釜石にもたびたび行った。もうghost townの象徴としての意味しかない街だった)。社会人なら追い出されただろうが、学生だから仕方がないと許容してもらえた。「何でも見てやろう」という意欲を持つのも、若者の特権かもしれない。
 「学生時代に借金してでも旅をせよ」というのは、確かに至言だったのだろうが、3年の時に北海道を旅行した以外、旅らしい旅はしなかった。その分、田無の学生寮で寝転がって、外国の文学の世界をネットのサーフィンをするように、気ままに渉猟した。
 ほとんど旅行らしい旅行はしなかった。馬術部の合宿に参加するのが精一杯だった。金もなかったし、馬術部の先輩や同期と出かけても、気まずい思いをして、楽しくないことが多かった。内気な東北人なのか、長男で甘やかされて育ってきたためか、人付き合いが苦手で、自分をモリエールの"misanthorope(人間嫌い)"と名付けていた。特に、関西や四国、中国出身の人たちと接すると圧倒されて、一緒にいたくないと思いがするのだった。つまらないことで、クヨクヨし、すぐに憂鬱になってしまうのだった。
 山中湖や岩手の滝沢村にあった種畜場での合宿には2年続けて参加した。山中湖での合宿では、13キロの山中湖を一周するマラソンをすることになっていた。走るのが得意でない我が輩には大変な苦痛だった。ボストンマラソンだったかで、"心臓破りの丘"というのがあったが、山中湖を一周する湖畔の道路にもちょっとした坂があり、上り坂は心臓が破れるかと思うほど苦しかった。血糖値が下がりすぎると危険なそうだが、心臓破りの岡を過ぎて苦しくなり死にそうな気がしたこともある。そんなときゴールで砂糖水を舐めると本当に生き返ったような気がした。
 東京の編成局勤務の時や退職後の協会のテニス仲間と何回か泊まりがけのテニスで山中湖を訪れたが、1年生と2年生の夏休みの馬術部の合宿を思い出さずにはいられなかった。2年生の時だったか、富士吉田の方にも国府津の方にも出ないで、御殿場線を静岡方面に向かい、沼津に出て帰ったことがある。そこで、風呂に入り、旅館のようなところで、白昼すき焼きを食った。滅法うまかった。
 旅行らしい旅行をしたのは、3年の夏休み、北海道に2週間行っただけだった。前の1週間は、北大で七帝戦という馬術の試合があったためで、啓迪寮に泊めてもらった。北大の予科当時からの衣類ではないかと思う古い汚い衣類が床に投げ捨てられていて、そこをよけて歩くのだった。食堂に行くと、「エッセンマナー」と書いたものが貼ってあった。エッセンとはドイツ語のeatという意味らしい。北大の構内では、「売り切れご免」で、自家製のアイスクリームを売っていたが、ジャージー種の牛乳で作るこのアイスクリームはほっぺたが落ちるほどおいしかった。その後、これほどうまいアイスクリームを食べたことはない。
 三平という名前だったかススキノの辺りで食べたラーメンも、劇ウマだった。ラーメンは道内あちこちで食べたが、醤油味だけでなく塩味のものもとても美味だった。トウモロコシも良い味がした。なにか、日本の中で違う風土の所に来たようで、不思議だった。北大の構内での七帝戦は本番の前に新人戦があり、馬術部生活の項で前述したように女性の部員が落馬して、開頭手術をした。その場に居た唯一の3年生だったので責任を感じた。
 北大での1週間の滞在の後は、当時5,000円だった均一周遊券を使って道内を一周した。稚内に行って利尻・礼文へ。礼文島のお寺に泊めてもらったが、他の部屋には小学生も泊まっており、朝トイレの前で、小学生が大の方のトイレを叩きながら、「トントントン、まだですか」と何回も聞くのが、ユーモラスで、まだその音が聞こえるような気がする。もう45年も前のことなのに。礼文島では、数十メートル沖の岩場でウニを捕る漁民達と話した。「食べてみるかい」と渡されて受け取った殻を割ってなかのウニを食べたが、甘くておいしかった。種類は、ムラサキウニでなければ、バフンウニというけったいな名前のものだった。
 そのあとは、オホーツク海に沿って南下した。カネのない奴は夜行に乗って遠回りの汽車の中で一夜を過ごし、こちらは稚内だったか、二百円か三百円の素泊まりの宿に泊まった。そして、稚内から朝一番の列車で南下し、オホーツク海に沿って走る線の方に乗り換えて、北見枝幸から中湧別まではレールがなかったので、バスに乗った。この部分は、日記を引っ張り出して地名を確かめたのだが、その前に、パソコンに入っている地図で正確な駅名を調べようとしたら、なんと、北見枝幸-浜頓別のみならず、この辺のレールはすべて消え失せているようだった。
 坂本義和先生は講義の時に言った。歴史は進歩するのか退歩するのか、それともスパイラルに変化するのか。過疎地の鉄道は、ある時期を過ぎると退歩する場合もある。
 カネがなくて、夜行列車の中で一泊した他の馬術部員とは、中湧別で再会した。ケータイもないのに、よく会えたものだ。列車の時刻表を見て、場所と時刻を打ち合わせておいたものだろうか。レールのない区間のバスの車中での感想について、当時の日記には、「オホーツクの海は深い緑色が美しい。まるで、裏磐梯の五色沼のごとくである。荷物をバスストップに投げおろしていくのが面白い。海岸の砂丘には、牛や馬が放牧されている。馬とはいえど、でぶでぶの農耕馬だが、(我が輩は馬術部員なので)ご機嫌である」と筆者は書きつけている。1961年8月10日のことだった。
 知床半島の近くの原生花園をみたが、シーズンをはずれていてハマナスはなかった。ニッコウキスゲはあっただろうか。東京の高校を卒業したT大生は、高校時代に富士山麓や信州などに出かけて、思い出がたくさんあるようだった。それにくらべて、当方は、そうした思い出がpoorであった。貴重な旅の思い出が、この北海道旅行だった。ウトロから船で知床半島の途中まで遊覧した。羅臼の方にも行ったような気がする。海の色が正にエメラルド色だった。
 釧路では海岸に行ったが、霧が出ていて寒くて子供達も海水浴どころではなかった。幣舞橋はいろいろな人がいろいろな思い出を持っている場所だと思った。新開地というのか思い切って自分の可能性にかけて頑張るにはよい場所だったろう。
 福島から北海道に向かう途中に本別に住む日大工学部(郡山)の学生と知り合い、その人の実家に泊めてもらった。その人の案内で阿寒湖を観光した。ボッケという湖底からお湯が沸き出しているポイントがあり、その人と泳いだ。遊覧船ではマリモの歌を流していた。その人とは、どこかで別れて、弟子屈、摩周湖、屈斜路湖、美幌峠を回った。美幌峠でかわいい女子大生を見かけた。後で連絡が付けられるようにと写真を撮って貰い、こちらも彼女を撮って、住所と名前を聞くことに成功した。山口出身で、女子美短大の2年生、高円寺に下宿していた。そのご、2~3回電話したが、結局会えずじまいだった。福島出身で椎名町に母の女学校の同級生でカナちゃんという人が住んでいて、Yという画家と結婚していたが、その家にたびたび遊びに行った。彼女の娘が女子美に通っていて、そのA子に聞くと、T.T.という美幌峠の彼女には「悪い男が付いているという噂があるわよ」と、まことしやかに教えてくれるのだった。その画家の娘は、沖永良部に絵を描きに行くと行っていた。カネと時間があれば、わが輩も同行していたかもしれない。そうすれば、A子と抜き差しならない間柄になっていたかもしれない。彼女は、その後童話の挿絵を描いていたようだ。インターネットのサーチエンジンに彼女の名前を入れて検索すると、彼女が挿絵を描いた童話の書名が沢山ヒットする。そのファミリーネームはYのままである。 
  小生がどんな雰囲気のお嬢さんに興味を持ったのか、百聞は一見に如かずで、奇跡的に画像が残っている。

"三高"という言葉もあるが、吾輩が女性には魅力的には見えなかった風体であることは確かである。旅行は、その後狩勝峠を通る列車で函館に出て帰ってきたが、途中で会う旅行者は、「いちばんよかったのは然別だ。あそこには北海道らしい自然が残っている。是非、然別に行きなさい」と異口同音に言うのだった。しかし、当時住み込みの家庭教師をしていた我が輩は、帰任の予定を変更することは、信義誠実の原則に反するような気がした。そのため、然別には背を向けて、本州を目指し、約束通りに東京に帰ってきた。
 馬術部に関係のない旅行は、2年生の夏休みの関西行きである。母の仲のいい従姉妹が神戸の東灘区鴨子ヶ原というところに住んでいたので、泊めてもらった。高校の修学旅行の目的地は、京都・奈良だった。しかし、団体で一緒に行っても本当の関西を見ることはできないだろうと思って、修学旅行には参加しなかった。旅行費用として、生徒は皆、当時のカネで2万円を積み立てていた。それを先生がくれたので、リンガフォンのフランス語のレコードを買った。ビヴリオテックという単語しか思い出せない。図書館という意味だったかと思う。新幹線のない時代で、初めて大阪について梅田の駅を降りたら、阪神だか阪急のデパートに3本懸垂幕がぶら下がっていた。一つには、「三宮まで21分阪神」、もう一つには「三宮まで22分阪急」と書いてあり、もう一つには「三宮まで28分国鉄」とあった。山手線の中に地下鉄と都電は別として、他の私鉄を入れさせなかった東京とは、違う文化、違う価値体系の下に動いている大都会あるのではないかと感じたのである。国鉄より私鉄が便利なことにも驚かされた。泊めてもらった家は阪急の御影が最寄り駅だった。普通に乗っても、乗換駅で待たないで急行や特急に乗れた。しかも、特急料金など払わなくともよかった。その後、津放送局に4年勤務した。名古屋に出張すると、行き帰りは近鉄の特急だった。おしぼりがでるのは嬉しいが、指定券を買うのが面倒だった。
 神戸にいても、三宮や元町だけでなく、京都・大阪・奈良を見て回るのに便利だった。後年、京都三条のウイークリーマンションに1週間泊まって、京都・大阪・神戸の年末年始の表情を見て回った。このときの関西旅行を思い出したからである。しかし、京・大阪は金沢にいたときにも、津にいたときにもよく行った。しかし、最初に行ったときが、一番素晴らしいものに映った。神戸で食べたケツネウロンは実に美味しかった。それまで、ウドンといえば醤油味の関東風のものしか知らなかったのである。又、大阪では吉田文五郎の人形浄瑠璃を見た。どんな名人でも、主遣いは人形の顔を見る。目がない文五郎は、見てもしようがないので見ない。まさに入神の演技だった。寒気がするほど感動した。などというのはまさに素人の感動なのだが...

NHK(研修)
 昭和384月、日本放送協会(NHK)の見習い職員になった。6ヶ月後に正式職員になるまでの、形式的なものだった。東京に家がないものは、世田谷区砧の中央研修所の寮に入り、研修所に通った。Mという明治学院大学出身の記者と同室だった。親が牧師だという彼だが、その後警視庁クラブの警備公安担当になり、機動隊の歌を歌ったりしたので、クリスチャンなのかどうか分からない人物だった。名古屋が初任地で、婦人交通指導員を現地採用したと聞いたような気がする。研修所では記者養成の臨時のチームができており、社会部出身の報道局幹部がその責任者だった。おしゃれな人だったが、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。我々はE校長と呼んでいた。研修が終わる頃か、地方研修に行く前だったか、節目の時に、パーティーがあり、記者としての研修の成果で、"何でも聞いてやろう"という気になっていた彼は、E校長を捕まえて、「Eさんはなぜいつも笑わないのですか」と聞いたものだ。痔が痛いから等という答えを期待していたのかどうか知らないが、彼はひとこと「武士のたしなみじゃ」。われわれは予想外の答えにぎゃふんとなった。「下らないことを聞くなよ」という凛とした古武士の風格が漂っていた。
  昭和38年は東京オリンピックの開かれる前の年で、職員を大量に採用した。研修期間も長く、総合研修のあと、地方局に行って、放送部、技術部、営業部(受信契約と受信料の収納)の業務を学んだ。小生が行ったのは、奇しくも18まで暮らした福島だった。信夫が丘に放送局があったが、NHKがラジオ局時代からテレビ局に変わりつつある段階で、テレビの送信装置が整備されて居らず、スタジオは局内にあったが、その電波を鬼面山のアンテナに飛ばすのは名古屋放送局で使い古した中継車だった。放送部ではアナウンスはしなかったが、取材用のウォーキートーキーを使う訓練では、吾妻山の土湯峠から通話ができるかどうかテストをした。「食堂の今日のランチの献立は何ですか」と聞いて叱られたりした。電波監理局がモニターしていて、目的外に使用するとお目玉を食らうとのことだった。サンダース軍曹の出てくるテレビの『コンバット』で、戦場で通信に使う無線と同じで、プレストークといい、どちらか一方しか話せず、ボタンを押しながらマイクに向かって話し、話の終わりに「どうぞ」というのだと教わった。サンダース軍曹達は、話しの終わりには「over」と言った。いまは、子どもでもケータイで通話する。今は昔の物語である。
 営業部での研修では、戸別訪問して受信料を集める経験もさせられた。放送部の記者やディレクターになると、カネを使って取材をしたり番組を出したりするのだが、そのカネがいかに貴重なものかを身をもって知るため集金人の苦労を味わえという訳である。年寄りの集金人の小父さんと信夫山の下を歩いた。僕の通った福島高校の近くだった。小川があって、その岸に腰をかけて小父さんが買ってくれたお菓子を食べた。自分で集金もしたが、その前に小父さんは、「『NHKから来ました』と言ってはいけない。『放送局から来ました』というんだよ」とノウハウを教えてくれた。
 技術部の研修では、実際に番組の切り替えのボタンを押した。ラジオ第一放送では、毎正時の前1分程度はローカルの枠があり、ローカル局のアナウンサーが天気予報などを読む。今は、コンピューターに連動してプリセットで切り替えるのだが、当時は技術職員がボタンを押して、ローカルに切り替えたり、全中(JAのことではなく、全国中継放送)に戻したりしたのである。午後4時前のステブレで、ローカルに切り替えるボタンを押したが、ラジオスタジオの外の部屋の時計の赤い秒針を見つめ、後ろに立った技術職員に肩を叩かれたのを合図に押す。とても緊張した。
 地方に行っている間に中央局研修というのもあり、3~4日仙台中央放送局に行った。丁度統一地方選挙かなんかがあって、すごく張り詰めた空気のもと記者が働いており、ニュースの現場に活気が満ちあふれていた。
 福島に戻って、残りの研修の日程をこなした。のど自慢だったかの雑用にかり出され、アナウンサーのチーフのような人が監督役だったが、僕たち見習い職員には、なかなか昼飯を食わせてくれず、御殿女中のような古手のアナウンサーは本当に嫌らしいものだと、恨みは骨髄に達した。たしかIというアナウンサーで、高校野球の中継の時、審判がストライクかボールかどちらかをコールしたところ、「審判は○○と言っていますが、あれは××です」と審判にも聞こえるような大声でアナウンスをして、退場になった逸話の持ち主だと聞いた。アナウンサーがそういっても、審判に退場を命ずる権限があるのかどうかは疑問だが、そんな話もまんざらウソではないように思える個性的なカオをしていた。
 研修中泊まっていたのは、「ぼたん」という北裡という芸者の置屋などがある一角の旅館だった。河野派の代議士の天野光晴の妾が経営していた。最後の日は、垢を落とせということで、飯坂温泉の旅館が宿舎だった。山形に陸軍の師団か聯隊があり、そこでの徴兵検査の後は、飯坂温泉によって吉原のような遊びをしたらしいが、われわれには、 無縁だった。ここで、小学生の頃、銭湯であった目つきの鋭い男がポン引きをしているのを見たことは、「福島 小学校 その1」で記述した。パターン認識能力というのか、よく十数年前に見た人の顔を覚えていたものだ。敗戦という価値体系の180度転換があっても、あの鋭い目つきは消せなかったのだ。
 地方局研修が終わると、また砧村に帰って専門研修を受けた。総合研修なんてまどろっこしい、早く実戦的な記者研修を受けたいと思っていた。みんなが東京に戻ってきて、何人かが体験発表をした。長崎局に行った連中の代表が受信料制度は虚構だというような趣旨のことを言った。学生だし、ジャーナリストの卵なのだから、タテマエでなく真実と思われるものを喝破したつもりだったのだろう。研修所の所長が烈火のごとく怒り、「もう学生でないのだ。遊びのようなつもりでやるな!!」と怒鳴った。こちらも同じような気分でいたので、縮み上がってしまった。トイレに行くと、便に血が混じっていた。胃潰瘍になったかと思ったのだが、一挙に痔になったらしい。そんなに怒るというのは、痛いところを突かれたからだろう。研修所の責任を問われるという腹立たしさがあったのかもしれない。アナウンサー上がりか何かは知らないが、威張りくさったこの研修所長はタテマエとホンネというフレーズで有名な丸山真男の弟子でないことは確かだろう。
 記者の研修というのは、放送原稿を書く練習だった。共同通信の記者が書いた新聞に載せるための原稿をアナウンサーに読ませる放送のニュース原稿に書き直すのである。ただ、デスマス調に変えるだけでなく、見出しを付けたり、小学校5年生から60歳70歳のオバアチャンにも分かるように、かみ砕いたものにするように教わったのである。      
 また、記者研修の一番初めは、当時のS報道局長の講義だったが、学生自体のクセでメモを取りながら、聞いていたところ、「これを原稿にしろ」といわれ、しめたと思ったものだ。メモを取らずに聞いていたほかの記者の卵は、皆かなり慌てていた。
 原稿を先生役の報道局のデスクに出すと、AからEまで、成績を付けて返してくれた。元の原稿と違う名前や時刻を書くと、事実誤認ということで、DかEだった。なかなかNHKのスタイルの原稿が書けなくて、「おまえは小学生以下だ」といわれたこともある。また、翌年が東京オリンピックで、女子選手村に取材に行くには女性でなければならないということで、アナウンサーとして採用された人の中で、5人が記者になるようにいわれた。このうち、確か1人は頑張ってアナウンサーに残ったが、4人は記者の研修を受けた。このうち1人は、その後、34年入局のHという記者と結ばれたらしい。わが輩の住んでいる西荻窪に、HとSと二つの名字のある大きな家があったが、アメリカにいることが多いのか、その家のあったところは取り壊されて、更地になった。それが、売りに出されたのか、近代建築の家に建て替えられたのか、興味がないので、確かめては居ない。近くの床屋のおばさんが、「あそこは東京12チャンネルに出ているHさんの家よ」と教えてくれたので、「ハハァーン、あのSさんの家か」と気づいたのである。Sは金沢の名家の出身で、祖父は民政党の大物代議士だった。金沢郊外には、Y温泉という大きな旅館があった。
 アナウンサーから突如記者にさせられた4人の女性は、原稿を先生に出し、「中学生以下だ」など毒づかれて、泣いたりしていたが、男は泣いたりはできなかった。男は「小学生以下だ」と言われたりしたが、それで食っていかねばならなかったのである。先生にも、甘い人と辛い人がいた。
 砧寮の1階に図書コーナーがあり、上野英信という人の書いた『追われゆく坑夫たち』という岩波新書があった。赴任地の希望を聞かれて、北九州と申告した。先生が、「北九州には新聞各社の西部本社があって、朝の4時までサツマワリだぞ」といったので、警察の嫌いなわが輩は、「じゃあ、北九は結構です」と尻込みしたのだが、蓋を開けてみると、任地は"大分"だった。九州の北半分にあり、""九州とも言えた。そう聞いた途端は、それが、九州の東海岸なのか、西海岸なのか、東海岸だとすると、宮崎より南なのか、北なのかも分からなかった。そのまんま東という芸名でビートたけしの一味だったお笑いタレントが、その後宮崎県知事になった。宮崎の知名度は、そのことでぐっとアップしたが、宮崎がどこにあるかを知らない人が結構居ることも明らかになった。大学を出た私も、宮崎と大分の位置関係を知らなかった。

大分放送局

 81日付で、大分放送局放送部の見習い職員に発令された。福岡放送局、鹿児島放送局に赴任する同期の記者と共にムーンライトという夜行の飛行機で福岡に向かった。夜中について、福岡放送局のニュースに挨拶に行くと真っ暗な部屋の中にぽっかりと明かりがついていて、デスクが1人で原稿に手を入れていた。近くの独身寮で寝て、朝になって出てこいと言うので、朝、又報道課に顔を出し、「君たちの来るのを待って居るぞ」という声に送られて、大分に向かった。当時は国鉄だった。博多(福岡)から大分に行くには、小倉を経由して日豊線、久大線を通って博多に帰る「ゆのか」と、日豊線、豊肥線を通る「にちりん」と2種類の循環急行があった。ボクは大分局に「ゆのか*号」で行くとだけ連絡したのが間違いで不十分な情報だった。「ゆのか」には、博多から見て小倉周り(右回り)と久留米周り(左回り)と2つの「ゆのか」があり、わが輩が来るのを首を長くして待っていた1年先輩の記者は早いほうの「ゆのか*号」(久留米周り)の到着時刻に大分駅に来た。着いた急行列車から、ボクは下りてこなかった。その後の、小倉周りの列車を出迎えたのは、3年先輩の記者と3年先輩のディレクターだった。記者の方はおとなしくて、ディレクターの方がよくしゃべるので、こいつの方が直接の先輩、つまり記者なのかと思ったが、逆だった。とにかく、瀬戸の夕凪といって、風が吹かない時刻はすごく暑い町なのだが、目抜き通りの街路樹のユッカラン(だったかのなぁ)とキョウチクトウの花が、南国に来てしまったなぁと感じさせ、オレはいったいここでうまくやっていけるのかという思いに襲われるのだった。半年経って101日に大して仕事も上達しないのに正式の職員となった。

 大分ニュースの構成は、30年東大文学部国文科卒、政経部(政治)出身のデスクと35年、36年、37年の入局の先輩記者。通信部は、別府、日田、佐伯、竹田の4カ所で、通信部記者が1人ずつ。臼杵と杵築にも通信部記者が居たかもしれない。カメラマンが2人。フィルム編集が2人、デスク補助の若い男性職員。電話で記者が送る原稿を書き取るデスク補助の女性アルバイト、テロップを書く女性。

 町村合併の前は鶴崎市といったところに鶴崎踊りが伝わっていた。記者に成り立てでその取材を命じられた。何を書いていいのか分からず、前の日は夜眠れなかった。研修所で、以前の原稿を見てはいけないと言われた事を後生大事に守っていたためである。どの程度書けばよいのか、その目安を知らないと、無限に詳しく書いてしまうことになる。話題ものは1分か50秒程度しか放送しないのだから、ほんとにホネだけしか書けない。その辺の塩梅を知るために、そっと以前の原稿を垣間見ておけばよかった。

 新人の記者は、サツマワリから始める。前任者は、サツマワリが苦手なようだった。(その後、彼は大阪に転勤し、大阪府警のクラブで各社に伍してサツマワリらしくなった.びっくりした)大分新聞という発行部数の極端に少ない新聞があり足利という名前から将軍というあだ名の年取った記者に教えて貰っているようだった。当方は、それを反面教師として、その人には頼らないようにしたが、独自にネタを取るテクニックに長けていないことはその記者と同じで、大分合同新聞という県紙によく抜かれて、デスクにつらい報告をせざるをえなかった。詐欺、横領、贈収賄などの二課事件は、とくにそうだった。殺人事件はほとんどなく、大分警察所管内で女性が殺されて見つかり、現場に駆けつけたところ、親族の一人が行方不明だというので、我が輩も含む素人探偵の若い記者が気追い込んで、「それが重要参考人ですか」と迫ると、刑事課長は、「そんなのはまだ分からない」と気色ばんでみせるのだった。しかし、蓋を開けてみると、結局犯人はその男で、我々が扱った一課事件は事件らしい事件は発生しなかった。別府では、赴任する前の年の2月に、別府警察署の後藤 磨巡査が殺害されるという事件が起きており、結局迷宮入りとなってしまったが、赴任する前に「後藤事件を抜かれたら、デスクの首が飛ぶぞ」と脅かされたものだった。この人は、別府警察署の駐在所の巡査だったが、大分では最大のイベントの別府大分毎日マラソン当日の日曜に行方不明になり、四日市町で死体で発見されたもので、拳銃や警察手帖などは見つからず、有力な手がかりは得られなかった。警察は威信に賭けても解決すると必死の姿勢で捜査に取り組んだものの、手がかりがつかめなかった。近くの北九州では暴力団の動きが活発だったことから、マル暴が噛んでいるのではないかとの見方が強く、福岡県警発の特ダネも飛び交ったらしいが、ガセネタだった。

 交通事故があって別大国道に行った。別府と大分の間の国道10号線で、原稿で使う常套句を引用すると“鏡のような別府湾”に面している。最初に行ったとき、交通事故係の警察官が忙しく調べているので、無理に話しかけると公務執行妨害になるかと思いモジモジしていた。30分ほど経って前任者のサツマワリの1年先輩の記者が来た。「何か分かった?」「発生は何時?」「ここはどこ?」「一当(第一当事者=事故を起こした加害者)は?」と矢継ぎ早に質問を繰り出すが、一切取材していなかった。それからまもなく、同じ現場の近くの山よりのところで火事があった。現場に行ってみたが、聞く人聞く人、みんな野次馬。火事が発生した場所の住所はおろか発火の時刻など一切取材していない。あとから駆けつけた先輩を、またま呆れさせてしまった。この二つは猿の高崎山の近くで発生したものである。観光客には人気の高崎山だが、我が輩には苦い思い出に近いスポットである。

 当時は朝日とNHKは“高級感”があった。朝日の同期は4月赴任で4ヶ月経験が豊富、おまけに運転免許を持っていて社の青ジープを乗り回していた。ある時別大国道を並行して走る日豊線で轢死(飛び込み自殺)があり、朝日のジープに同乗して現場に行ったら、線路に細かい肉片がこびりついていた。その直後二人で行きつけのレストランに行ったが、大森和夫君(朝日の新人記者)は平気で焼き肉にぱくついていた。当方は殆ど食べ物が喉を通らない状態で、到底大森君の境地に達するのは無理だろうなと感じた。 この大森君は、その後政治部で文部省を担当し、派閥は田中派担当だった。その中でも、“趣味は?”と質問されて、「田中角栄」と答えた二階堂進をカバーした。彼は早めに会社を辞め、奥さんと共に、日本語を学ぼうとする中国の若者をサポートする事業を自費で繰り広げた。彼らに日本と日本語を知ってもらうための教科書を作ったり、日本語作文コンクールを主催したりと、息長く素晴らしいボランティア活動を続けた。  警察でケチな特ダネを2回取っただけだった。ネタ元をばらすことはできないが、のんびりしてガツガツしなかったため、紳士的だとファンになってくれた人が居て、こっそり電話してくれた。最初の年に貰ったボーナスでキャノンセブンという35ミリカメラを買った。無論フィルムカメラである。東北人のボクは恥ずかしくて値切れない。そこで1年先輩の京都出身の記者を連れてカメラ屋に行き、値切らせた。5万円になった。それで警察で刑事らの顔を撮り写真屋で焼き付けてプレゼントした。写真を撮らせてくれたのだから多少信用してくれていたのだろう。地元の大分合同新聞の記者は刑事にご馳走したりしてがっちりとネタを取っていたのに、東京から来たNHKの記者は紳士的で好感が持てたのだろう。記者は「あの人は勘がいい」と警察側に恐れられてこそホンモノであり、「いい人だ」などと言われるのはサツマワリ失格である。鶴崎で二課事件で抜かれて、後追いのために朝日記者とある工場に行った。なんだか取り込んでいて、全然取材できなかった。あきらめて大分県警の2階にある県警クラブに帰ってきた。ところが、その工場で死者が2~3人出る労災事故が発生していた。それでばたばたしていたのである。車で30分ほど離れた旧鶴崎市に慌てて引き返したが、その日は自分たちの情けなさをサカナにやけ酒を飲んだ。 大分警察署で大特ダネを取り損なったこともある。昭和38年11月総選挙で大分一区の広瀬正雄氏の秘書が久大線の沿線で職質に遭い、逮捕された。彼はカネを配った先を記したメモを持っていた。余裕があれば、それを飲み込みたかったところだろうが、それをサツは押収してしまったその話は誰も知らなかった。たまたま、大分警察署の刑事課の薄暗がりのスペースにいたら、刑事課長が検察庁の指揮を仰いでいるようなやり取りが聞こえてきた。浦塚という広瀬陣営の運動員が久大線(広瀬の地盤の日田から大分まで走る路線)に沿って金を配って歩いた。それが投票日前に警察の懐に飛び込んでしまったのである。記者としてスタートして3か月、西も東も分からない僕には無論全貌は分からなかったが、とにかく大変重大な問題が起きているらしいということは分かった。吾輩は一番先任の記者に報告するとともに、日田の通信部の記者にも連絡した。ところが、翌日日田の通信部からは、「こちらではガサ(家宅捜索のこと)などの動きは一切ないと言ってきた。 でも実際は大捜査が始まった。後日、安達真吾という県警の捜査2課長から「あのときは困った」と言われた。何時集合と約束して日田に捜索に向かったのだが、その前に吾輩がその動きをキャッチしたようなので、慌てて対策を講じたというのである。なぜだかその夜、吾輩は駅前通りの屋台で県警の捜査2課長ら幹部と酒を飲んだ。レバーや鶏肉でなくホンモノの雀を焼いたヤキトリがさかなだった。その場で安達課長は、この人は年寄りだから、もう解放して家に帰してあげようやと言って次々、吾輩の前から捜査員を待機場所に向かわせたというのである。まあ、政治部志望の僕にとっては、こんな社会部ネタはどうでもよかった。それと、投票日の前だったから、どのように扱うか検討すべき問題も生じたであろう。

 社会部ネタで、空前絶後のケースは、富士航空機墜落事故だった。後年日本国内航空に統合されたが、富士航空という会社のコンベア 240型機が1964年2月、当時の大分空港で墜落した。双発のプロペラ機の乗客乗員は四十数人、対岸の松山からの便だった。新婚旅行の乗客もいた。二十数人が死亡、重軽傷者も二十数人だった。大分空港は、大分川の本流と裏川という分流に挟まれていたが、旅客機はオーバーランして裏川の河原に胴体着陸のような形で落ちた。真ん中で割れて、後ろの部分で火災が発生したため、機長らコックピットにいた人など、前の方は犠牲者は少なかったが、後ろの乗客は焼死した。

 事故の瞬間、吾輩は別府通信部でのんびりしていた。別府通信部の記者は結婚しており、休暇で夫婦で東京に帰省していた。そこへデスク補助(ニュースデスクのそばにいて、記者が電話で送る原稿を書きとったり、デスクの連絡を記者に伝えるバイトの女性)から電話がかかってきた。「ヒコーキが落ちたのよ。すぐカメラ(ムービー)持って局に上がって来なさいって!」「えっ、どこに落ちたの?」「大分よ!とにかく早く上がってきて!」局につくと、まさに戦場のような騒ぎだった。すぐに現場に向かった。

 しばらくして、フィルムを現像し、ラッシュフィルム(編集する前の撮影したままのもの、この中から編集マンが良いものだけを選んでつなぐ)をみんなで見た。すると誰かが大声で叫んだ。「誰だ、これを撮った奴は?死体ばかり映していて、使えないじゃないか!!」「どうも、吾輩の仕業のようだった。だって、撮影の研修では、そんなこと言われなかったもん」などと言っても逃げ切れそうもないので、僕は押し黙って時間の過ぎるのを待っていた。

 機長らは市の中心部の旅館にいた。そこの入り口の応接スペースで徹夜した。取材で徹夜をしたのはこの日くらいである。ただ、何を取材すべきか皆目見当がつかず、福岡局や北九局からきた応援のデスク(社会部出身)から半端人足と蔑称を投げつけられた。

 大分川の右岸に願西寺というお寺があり、二十数人の遺体はそこに安置された。椅子に座ったまま焼け死んだ人の膝は曲がったままだった。そうした遺体を入れた棺の蓋は閉まらなかった。そして何とも強烈な死臭が本堂に充満していた。毎日毎日そこへ通う記者と県警捜査1課の刑事調査官(死体の見分をする専門家)のスーツにはしっかり、その匂いが染みつき、記者クラブ全体にもお寺のようなにおいになった。困ったのは、電話の送話口に着けたカバーも匂いを吸収してしまい、電話をかけるたびに死臭が鼻を突くようになってしまった。記者クラブには、記者の世話をするために、若い女性が配置されていた。おみっちゃんという、その女性は、自分の城(我々は取材で外に出るが、彼女は各社から記者へ電話があった際、伝言を聞き取るためにも常にクラブを離れることはない)が死臭に蹂躙されたことに強いショックを受けて泣いたりもしていた。そうだろうなと思ったが、同情から彼女を娶ろうなんていう思いは沸かなかった。

 この件で、誰かに取材したら、身柄は取らないというニュアンスの確信を得た。「冨士航空機事故 書類送検へ」という原稿を出稿し、放送したら記者クラブ中大騒ぎになった。「これは協定が成立しており、発表まで書かない約束になっていた」というのである。そして、他社のクラブ員は全員僕と口をきかず、無視した。村八部どころか村九部か十部だった。それまで、そんないじめに遭ったことのない吾輩はすっかり落ち込んでしまった。そこで、県警本部長のところへ行って窮状を訴えた。同じ社の上司ならともかく、取材先の最高責任者のところに行くのは筋違いというものだ。でもその頃の本部長は大体東京大学法学部の出身者であり、クラブで後輩は僕だけだったので、甘えに行ったようなものだった。おまけに逮捕であれば、時間的制約はあるが、逮捕していないので、なかなか書類送検が実現せず、ガセネタになってしまうのではないかと心配も募っていたのである。関英雄さんという名前だったと思うが、「逮捕しなかったのだから、君の書いたニュースは嘘じゃない。性格だから安心しなさい」と慰めてくれた。僕は泣きそうな顔をしていたのだろう。背広を着ていても、幼児みたいだったにちがいない。

 サツまわりの1年間にはこんなこともあった。お正月県警幹部の家を四軒回った。あとから、あれっまた会ったねという人もいた。その前に行ったところで会った別の警察幹部である。ほかの社の記者はおらず、周りは警察の人間ばかりだった。「記者さん、記者さん」と、大変な持てようで、その家の主人だけでなく、居合わせた警察幹部から次々酒を注がれた。3軒目の途中か4軒からは記憶がない、とにかく局の長椅子に横になって寝ているのに気づいた。それだけならいいが、ニュースデスクがニュース原稿を編集する神聖な場所に僕の吐しゃ物が一面広がっていた。それまで学生気分の抜けない僕は盛んに書生論を振り回し、「それは清潔とは言えない」などと口をとがらせて主張していたのだが、口の悪いデスクは「清潔、清潔という八鍬の清潔がこれか!」と叫ぶ声が二日酔いでと頭がガンガンする僕の耳に響いた。

 最初に借りた部屋は、NHKの局舎のすぐ前のモルタル塗りのアパートだった。一間で流ししかなかった。布団の上げ下ろしをしなくともいいようにフランスベッドを買い、そこに寝た。最初のうちはぐっすり寝込んでしまう。夜中に事件が起きると合タク(別府大分合同タクシー)が電話のあるニュースデスクの家に電話をする。記者を取材に出す必要があるとデスクが判断すると、タクシーをサツマワリの家に回す。家に電話があるのはデスクと通信部の記者だけだった。タクシーの運転手が記者を乗せて、カメラを持って行く必要がある場合は、局によってから現場に向かうのである。記者が寝ていれば、たたき起こして連れて行く。それがタクシー運転手の任務だった。就職したばかりの頃は寝込んでしまうとなかなか目が覚めず、志村喬のような顔をした運転手は、よくボクの部屋に入ってベッド上のボクを揺り動かして起こした。だから、部屋のカギは掛けられなかった。その後結婚して別の家に引っ越したが、タクシーを呼んだらその志村喬が新婚家庭の部屋の中に黙って入ってきた。新妻と抱き合ったりしていなくてよかったとホッとしたものである。

 タクシー会社は、乗車運賃が稼げるので事件事故をキャッチすると、積極的にNHKのニュース責任者に通報し、公共放送のNHKは視聴者の求める情報の提供に努めるということで、お互いにハッピーな関係だった。社会人1年生の時から、「われわれはあなた方の足です。お世話になります」と合タクから靴下のお中元・お歳暮を貰った。ある晩、タクシーの運転手から起こされて局にいってデスクに電話した。デスクは、「5軒長屋が5棟だが7棟だか燃えているというんだが、多分5棟とか7棟というのはウソだろう。でも、一応現場に行ってこい」と言った。デスクが言うのだから、そうだろうと思って現場に着いたら、本当に5棟だか、7棟だか燃えていて、一面火の海だった。ポラロイド写真を撮ったが、途方に暮れた。ASA感度3000の白黒のポラは映るのだが、ラティチュードが狭く、ちょっと露出が狂うと真っ白か真っ黒になってしまうのである。

 でも、こんな事でだんだん不感症になっていき、あまり驚かなくなった。いまでも、火事や交通事故で人だかりがしていても、ほとんど見る気がせず、野次馬を尻目に通り過ぎてしまう。無論、取材するのが任務ならそうはしないのだが。

 赴任して間もない頃、寿司屋に行った。軍艦巻きというのだろうか、生の牡蠣を載せて食べる寿司に初めて接した。とても美味しかった。福島市は海に面していない。子供の頃活きのいい鮮魚類にアクセスできなかった。塩釜もいわきも相馬も時間距離は当時は遠かったので、塩が効いていたり、生臭かったりした。無論刺身もあったが、高かったし、冷蔵庫もなかったのですぐに食べる必要があった。大分に赴任した同期のアナウンサーは湘南育ちで魚が好きだった。

 寿司屋に行って、非公式の何回目かの歓迎会の時、酒乱の気のあった先輩カメラマン(早稲田の大学院卒)が突然英語でボクにからんだ。英語が苦手なボクは何を言っているのか理解できなかったし、触らぬ神に祟りなしということで相手にするのを避けた。すると、彼は激高して暴れた。それを抑えようと周りの人が彼を取り囲んだところ、一番先輩の記者が思いきりスネをけられて、かなり痛がっていた。とんだトバッチリだった。東大卒は反発を招きやすい一面があるのは確かである。1年後に新人が来た。30年卒のデスク、2年先輩、我が輩、1年後輩は東大、1年先輩は京大の仏文科卒で生島遼一らに習ったらしい。。

  大分市は、大分市、鶴崎市、坂ノ市町、大在町などが合併してできた。岡山の水島地区と並んで全国開発計画の新産業都市として位置づけられていた。戦後の傾斜生産方式のように投資や税制で重点的に行われたかどうかは覚えていないが、県庁の中では企画部企画課が幅をきかせていた。旧鶴崎市には大野川、旧大分市には大分川が流れていて、大野川の河口と大分側の河口の間に1号地と2号地が造成されていて、更に大分側の河口に向けて3号地と4号地が造成され、富士製鉄の製鉄所が進出することになっていた。3号地と4号地を作るのは、裏川という大分側の分流が流れていて、埋め立て地を2つ作らなければならなかったのである。(旅客機が墜落したのは、この裏川の河川敷である)

 県庁のクラブを担当しているときに、某課長がポロッと「富士鉄が3号地と4号地を一緒にすると申し入れてきた」と大変な秘密を漏らした。永野重雄というのは稲山嘉寛と並んで財界の大物だった。書生っぽさが抜けないボクは、独占資本というものは大分の知事の意向などはごくごく簡単に操作できてしまうものなのだと舌を巻いた。

 これはニュースだと思って、夜局に上がりラジオニュースの原稿を書いて、翌朝のローカルニュースの時間にアナウンサーに読ませた。福岡からはテレビニュースを出していたので、福岡局に送稿すればテレビでも放送し、大特ダネとして大反響を呼んだだろう。取材先を保護したい気持ちもあったし、自分の原稿に筆を入れられるのもイヤだったので、そうした。それがばれれば統制を乱したとして譴責処分になったのだろうが、NHKの内部の人間は誰もこれに触れなかった。

 当時OBS(大分放送)という民放局に中尾という記者が居た。彼は国東の自民党の大物県議の息子で、彼だけが翌朝ニャッとして、「キミが書いたんだろう。大変なニュースだね」と言った。富士鉄の進出は、農工併進を唱える木下県政の最大のプロジェクトであり、そのニュースバリューは大変に大きかったのだが、県が手を回して書かないように根回しをしたのかもしれない。

 当時の土木部の河川課長は建設省から派遣されてきていた人で、その後ボクが金沢に転勤した時には、石川県の土木部長になっていたが、「分流をつぶすというのは本流の洪水を防ぐ上で大いに問題があった」と富士鉄の要求を入れた当時の県の姿勢を技術屋としての良心からは危惧せざるを得なかった苦しい胸の内をあかした。

 結局特ダネにはならなかったが、ニッポンの実態の一部を記者だからこそ覗けたのだと思った。 カドミウムはイタイイタイ病の原因物質である。四日市公害や水俣病に比べてメカニズムがシンプルだ。そのカドミウムが大分の河川で検出された。特オチという奴で往生した。公害については久世さんという久世光彦のお兄さんで自治省のキャリアの企画部長が担当だった。仲良くしていたつもりだが、全くつかめなかった。情けなかった。自治省(今は総務省の地方振興局)は昔の内務省の地方局で、そこで課長補佐をしていると都道府県の部長になって赴任する、県議会などでは天下りと言って非難した。久世(くぜ)公堯(きみたか)という人は人をくっており、天下りでない証拠に「地元の人間になりました」と言って、本籍を大分市に移したそうだ。その後彼は自治省に戻り、自民党から参議院議員になったが、本籍をどうしたのかは寡聞にして知らない。霊友会だったかが彼の票田で、それに関して、よくないことで記事にされた事があった。いかにも東大法学部出身でございという感じの男だった。県議会で答弁に立つと「**先生ご案内のように」と「(貴方も)ご存知のように」というところを、“ご案内”を連発した。それは瞬く間に、ほかの答弁者の答弁に伝染した。今の役人は「**してございます」などというのだが、役人の議員に対する尊敬語として都で流行っていると思ったのだろう。

また彼は地元の人間になりきると言って本籍を移した。そんなことをしても2~3年で他の府県か自治省に異動する。彼は、企画部長で来て、総務部長に替わった。普通より長めに居たかもしれぬ。他に転勤したらまた本籍を変えたのだろう。 農工併進と言っていた木下郁(かおる)という知事は、宇佐あたりの名望家の生まれで、弟は木下謙次郎といって『美味求真』という本を書いた人である。 とぼけた人で記者なんか煙に巻いてけろっとしていた。知事公舎に夜回りに行っても特ダネは取れなかった。鄙にはまれな名望家で超然としていた木下さんだが、年取った時事通信の記者が娘を亡くしたときに木下夫人が彼を効果的に慰めたようだった。時事通信はもともと地方官庁とも深いつながりのある通信社だが、彼は北海道出身で人柄もよかった。 公用車はリンカーンで、彼はよくハエ釣りに行った。ハエはヤマベ、福島ではオイカワといった。子供の頃の釣りは阿武隈川でのオイカワだった。たまに、アユもかかったが。ある時記者会見で、僕が「知事は何故公用車で県内のあちこちに釣りに行くのか。税金の無駄遣いではないか」と質した。その時彼は少しも慌てず「治水は政治の根本である。河川の整備状況をこの目で確かめるために出かけているのじゃ」と言った。僕は二の句が継げなかった。彼は、僕の先輩である。大正時代のあるときまで帝大の法学部を卒業すれば無条件で弁護士になれた。彼は弁護士の経験があった。蜂須賀家の訴訟で弁護人を務め勝訴して、かなり金を貰ったと聞いたことがある。彼の作戦は相手方に資料を見せないことだったという。学生かなんか若者にカネをやって、ある資料の閲覧を続けさせるように手配し、“合法的に”貴重な資料を相手に利用させないようにしたというのである。こんな三百代言にかかっては我が輩など勝ち目はなかった。 ある時、東京にある件の学生寮の利用者を調べたら、3分の1だか2分の1だか、県庁職員の子供が多いのに気がついた。「大分県の学生寮の寮生は県庁職員の幹部の子弟が多い」と記事にした。記者会見でそれを質したら、「幹部というのはインチキだ」と烈火の如く怒った。僕は係長以上を幹部と書いたのだが、彼の定義では係長など幹部ではなかったのだ。当方はニュースの価値を一飜から二飜上げるために幹部のハードルを意識的に下げた。彼は、それを突いてきた。

 その前には、出口広光さんという企画部長も居た。自治省出身で、その後秋田に帰り地方区選出の参議院議員も務めた。マーク・ゲインの『ニッポン日記』に秋田で彼に会った事が書いてある。本人には気の毒だが、「ねずみ男」と書いていたような気がする。東北大の出身だったか、戦争を挟んでいるだけに、彼にはいろいろと苦労もあったのだろう。鴨居にぶらさがるという特技があった。その後政治部にいたとき秋田に行って会った。自治省から地方に行くとき、普通は課長補佐から部長にというように二階級上がるが、出身地に行くときは一階級しか上がらないような気がした。彼は秋田県庁の幹部をしていた。秋田は酒どころ、金粉入りの日本酒の一升瓶を土産にもらった。酒を飲んだら金粉は金糞になって出るのだろうかと思った。飲んだあと確認したのかどうか、その記憶はない。

 自治省出身では白枝祥男さんという財政課長も居た。0歳児がおっぱいを吐いて、それが気管に入り、窒息してなくなった。とてもがっかりしていた。彼は島根大学の出身で、島根県庁に帰った。島根に出張することもなくて、会えなかった。取材する身、される身を離れて、もう一度会ってみたかった。

 内政関係者名簿というものがあって金を出せば買うことができた。3級職といっていた警察庁採用の警察エリートは採用年度ごとに名前が載っていて取材するには年次を把握しておくことが必要だと先輩に聞いた。自治省も警察庁も戦前内務省だった役所の高級官僚は住所も含めて載っていた。そのご過激派の学生がそれで家を確かめ襲撃する恐れがあるということで、住所は警察庁の所在地に統一されるようになった。東大法学部出身だと学歴でコンプレックスを抱くことはなかった。優の数の多寡を話題にすることはなかったから。

 大分にいたのは6年10か月、自分が一番偉いような気がしていた。時々台風が来た。選挙と災害はNHKの二大看板である。今のTVの台風報道を見ていると台風が接近している地方の中央局(九州なら福岡、中国なら広島)に東京からバトンタッチし、そのあとその中央局の管内の各局のアナウンサーの顔が出たりするのだが、昔のラジオでは各局が中央局に原稿を電話で送り、それに中央局のニュースデスクが手直しをして東京に電話で送るという方式だった。だから、例えば午後4時の東京のアナウンサーの読むニュースの原稿の大分の様子は午後2時ごろに書いて送る必要があった。ニュースは真実を伝えるものであるはずだが、午後2時に2時間後の大分の気象状況を予測して書かないと間に合わなかったのである。

 県庁を担当していた時は、県議会を取材した。市議会と違って県民全体に関係があるからと思って、知事の答弁などを一生懸命記事にした。今NHKのニュースを見ていると総理の発言を大きく扱っている。しかし、本人が常に票を意識して思惑でしゃべっているのであって、本当に意味でニュースではない。こう思うと、自分も何をやっていたのだろうか、間違っていたのではないかという気がしてくる。

 ある時、政経部出身のニュースデスクなのに、夏の高校野球の県大会決勝戦(甲子園の全国大会の出場校を決める)をニュースのトップ項目にした。県庁のニュースが一番ニュースバリューがあると思い込んでいたので衝撃を受けた。

別府に行く途中に小さな港があってそこで小さなアジを釣った。近くに県警本部の防犯課長が住んでいて一緒に釣った。彼は警備畑出身で優秀な人だった。酒は飲まないからと高級洋酒を持ってきて撒き餌に混ぜたりしたがそれでうんと釣れたことはない。アジには高価なウイスキーの味が分からなかったらしい。

結局、吾輩は大分で何をしたのだろう。大分新産業都市は1号地から5号地まで埋立地があって(その後68号地までできた?)船などの発着する5号地と発電所や製油所のあった1号地は別として、24号地が焦点だった。このうち2号地には昭和電工の石油化学コンビナートができ、34号地には富士製鉄が進出して大分製鉄所を作ることになっていた。昭和電工は新潟水俣病などで評判が悪かった(終戦直後の小伝疑獄と言われた汚職事件でも有名だった)ことや、米粒みたいなプラスティックなどの原料を作るだけで経済的波及効果が少ない、早く本命の「鉄」に来てほしいという一心で原稿を書いていた。まさか、富士鉄の作る銑鉄で鍋、鎌、鍬を作ればいいと思っていたわけではないだろうが、製鉄所ができれば2次産業が盛んになって、飛躍的に県の工業出荷額が増えるだろうと思い込んでいた。木下知事が.“農工併進”と言ったのは、生産性の低い農業だけでは、大分県民の暮らしはいつまでたってもよくならず、発展途上国が工業化を目指すように大分県も2次産業の振興を図る必要があり、その中心が富士製鉄大分製鉄所だったのである。うまうまとその流れに吾輩も乗せられてしまった。その後、名古屋で勤務しているときにつくえを並べていたB記者は東京経済部に転勤した後、「産業のコメであるICの生産が……」と、何とかの一つ覚えのようにICの原稿ばかりを書いていたが、吾輩はそれを笑えないのである。

選挙と災害(報道)のNHKというのは、新聞は朝刊と夕刊(夕刊のない地域もある)しかないが、放送は即時に情報を発信できるので、選挙の開票速報や台風などの進路予想や避難の情報などはリアルタイムで伝えられるということである。

開票速報は、いわゆる当確(当選確実)をうつので単なる開票の報告のみではない作業が加わる。

大分では当時衆議院の選挙区は1区と2区があって、特に1区が難しかった。20時から開票が始まり、県庁で20時30分現在で集計した選挙区全体の票を20時50分に発表する。30分ごとに、それが繰り返された。それとは別に主な都市の開票所には記者を貼り付け、開票所で発表される票を開票速報本部に送らせるということを、どこのマスコミでもやっていた。

そして放送に出すのは、県で発表する数字だが、報道機関としての判断で当選が間違いないと見たら、その候補に当選確実のマークを付けるのである。当選確実を打った候補が落選した場合は、その責任者は一生浮かばれないのである。

さて、大分の場合、大分市の人口が多く当然有権者数も多かったため、開票率は他の町村より遅かった。県で発表する選挙区全体の票に反映される大分市分の票は、大分市の開票所で発表される票よりもかなり少なかった。つまりタイムラグがあった。一般的に言えば、自民党は農村地帯の町村部で強いため早い段階ではリードしているが、労働者の多い都市部では社会党が強いため、競馬のように先行馬が勝つとは限らない。

各社とも、大分市の開票所に記者を出していても、県で発表される選挙区全体の票にどの程度大分市の票を加味すればよいのか判断できなかった(と私は思う)吾輩は考えた。県の発表と大分市の結果、これを活用する方法はないのかと。ところが、邪魔だと思っていた数字があった。選挙区全体の各候補別の票を発表した後、そこに含まれる市別の票も発表していたのである。つまり、選挙区全体の票から大分市分の票を引き、そこに最新の大分市の票を足すと(大分市を除いてほかの市町村の開票が終わっている段階では)事実上次の県選管発表の結果を予測できるわけだった。

こうして、吾輩は社会党の2人の候補が、定数4の選挙区で、5位と6位にいたとき、二人に当確を打ち、見事に各社のはなをあかしたのである。取材陣が最も豊富であった地元紙の県政クラブキャップは後日、吾輩に「NHKさんにはコンピューターがあるからかなわない」と言った。確かにNHKの本部にはIBM360という大型コンピューターがあった。しかし私はそんなものは使ってはいない。四則演算のうち、減算と加算を行ったのみである。

 大分にいる間に結婚し、一姫二太郎と二人子供ができた。恭子は大分精神病院というところに薬剤師として勤務し、子供は近くの人をベビーシッターとして預けた。

 ケネディ大統領が暗殺されたとき、本人であるのを確認したのがマサチューセッツ州の運転免許証だったというので、免許を取ることにした。2万円で免許取得を請け負ってくれる人がいて、その人に頼んだ。彼は自動車学校に顔が利き、僕の空いている時間に彼の車で自動車学校に行き、1時間単位で練習した。当時はクラッチ付きの車しかなく、ギアをニュートラルにしてエンジンをかけ、ギアを1速にしてクラッチペダルをゆっくりと放しながらアクセルペダルをゆっくりと踏む。しばらくするとクラッチペダルを踏んで、ギアを2速に変えてクラッチペダルを徐々に放しながらアクセルペダルを踏むという繰り返しで、トップギアに持っていく。停まるときは、クラッチペダルを踏んでブレーキペダルを踏まないとエンジンが止まってしまう、と面倒だった。ハンドルの切り方も十字ハンドルというやり方で回すのだが、吾輩は人一倍不器用で、ハンドルを回す際全身に力が入ってしまい、アクセルペダルに置いた右足もつっぱってしまう。このため、急角度で曲がるところでは急にエンジンの音が大きくなりスピードが出るので、車の方が故障していると思ったものである。

 こうして6年10か月盤踞していた大分だが、東京政治部に転勤することになった。うれしくて天にも昇る気持ちだった。事故の取材や、初めての子供を連れてよく通った大分空港から東京に向かうことになった。大勢の人が見送りに来てくれて、私も挨拶をした。しかし、悪天候で欠航となり、なんともバツの悪い状態になった。仕方がないので、列車で福岡に移動し、板付空港から羽田に向かった。赴任した時の逆のコースを辿ったのである。

 

政治部

1970年6月の異動で東京政治部に来た。法学部政治コースで政治過程論に興味を落ち、日本の政策決定のプロセスをインサイドで見たいという思いで記者の道を選んだ吾輩である。そのため、苦手の取材競争で他社に抜かれ後悔の臍(ほぞ)をかんだのも、この機会をつかむための必要悪だったのである。

寮は小金井の借り上げマンションだった。住所は小金井市梶野町、小金井公園の近くで、法政工学部のバス停から中央線の東小金井に出ての地下鉄丸ノ内線の国会議事堂や霞が関で下車した。引っ越しの片づけを妻に任せて、せっせと官邸クラブに通った。政治が決められていく場の近くにいることが嬉しくてならなかった。

電話が付かないので早くつけてもらうための申請書を出すのに木村鍈一という政治部長に判をもらいに行った。「一日も早く政治記者として社に貢献したい」と理由を書いたら、彼はせせら笑った。すぐに役に立つなんてありえないということだったのだろうが、法学部の先輩なのだから、そんなふうにバカにしなくともよいのにと腹立たしく思った。12年先輩の彼は、河野一郎担当だった。河野一郎が死の床にあったとき、彼はすぐそばにいた。河野派の議員の大半より近い位置にいた。臨終のとき彼は飛び出して社に一報した。臨時ニュースで巨星墜つと速報した。当時はラジオだろう。ところが正式の死亡時刻はそれより後だった。誤報になったのだったのだが、NHK流の“政治記者”としては勲章だった。このほか、夜回りに行って寄って寝てしまい、気が付いたら蚊帳の中で、派閥幹部で大臣(防衛庁長官だったかナ)夫婦と一緒だったという剛の者もいたと聞いた。

最初の一年は、首相官邸兼法務省。しかし、NHK政治部では役所はともかく派閥取材の方が重要だった。担当したのは、村上派。村上勇という大分一区選出の衆議院議員が会長だった。大分が初任地ということでその派閥担当になったのだろう。以前は大野派という党人派の大物の大野伴睦の派閥が分裂し村上派と船田派になっていた。村上勇は、派閥が分裂したのは読売の渡邉恒雄のせいだと怒っていた。悔しそうな顔をして。

 総裁派閥や総裁候補を抱えた大派閥は党内でも力を持っているが、小派閥は総裁選(日本の首相を決める最大の権力闘争)の時に、草刈り場になってしまう。総裁選の票読みの際、大派閥の担当記者は自分の派閥の議員について、その派閥の親分に投票すると言えば済むが、候補を出さない弱小派閥の議員は、だれに投票するか口を緘して教えてくれないので記者は説得力のある報告ができない。総裁候補を持つ派閥の担当者が、あれはこういう理由でウチに来ると主張したりする。そうすると、まったくお手上げだった。弱小派閥の議員はニッカ、サントリーという言葉がささやかれたように複数の派閥に通じていたこともあっただろう。また、記者に本当のことをしゃべれば、ほかの陣営に筒抜けになることもあって、だれに投票するか秘密を保つのは絶対に必要な貞操帯だったのである。

政権のうまみを味わう点で議員も小派閥は不利だったが、担当記者の運命も同じだった。

NHKの政治記者は、政権がどこへ行くのか、それだけを考えて生きていた。役所の取材などどうでもいい。その肝心の派閥取材で、ミスをした。村上派の会長の村上勇はもともと、建設会社の経営者で、弟の春蔵を大分県選挙区選出の参議院議員にしていた。また、大分二区から代議士になろうとしていた佐藤文生は公認が取れるよう村上派から出た。しかし、自民党内では力がなかったため、船田派だった水田三喜男に乗っ取られてしまった。この動きを、私は全く知らず、フォローもうまくできなかった。

法務省の記者クラブも特別だった。法務省には社会部記者はいなかった。社会部は司法クラブというのがあって、これは東京地検とりわけ特別捜査部-特捜をカバーしていた。また、最高裁、東京高裁、東京地裁の判決なども司法クラブの担当だった。政治部記者は社会部的マターに興味を示さないので、事前の懇談でオフレコをかませれば御しやすいと法務省サイドは考えていたのではないか。かつて、青法協がらみで、判事補の再任が問題になった際、「政治部記者(法務省担当)は知っていたのに我々には教えてくれなかった」と社会部の記者がこぼすのを聞いたことがある。

なにしろ、法務省の幹部はみんな司法試験に合格して検事か判事になったアタマのいい人間ばかりだった。そのなかでも、特に優秀と目された奴が、検察庁や裁判所から法務省に引き抜かれる。そして、出世して現場に戻るのだ。最高検察庁の検事総長、東京高検の検事長、最高検の次長検事、各高検の検事長が検察関係の最高幹部なのだが、検事総長は何代も先まで決まっていたということだった。法務省の次官はだいぶ下の方だった。

伊藤栄樹という何代目かの検事総長もそうした一人だった。旧制八高(名古屋)出身だったが、(大学は東大法学部)すごく頭のいい人でマージャンをすると、ほかの三人の持っている点を覚えてしまい、また詰め込みをするのか、必ず大勝してしまうので、つまらないと言っていた。彼は札幌高検の検事長時代、「北海道では流れに乗ってスピードを出して走らないといけない」という趣旨の文章を書いて、法の番人がスピード違反を助長してどうする!と非難されたが、問題なく、検事総長になった。随筆的な本も書いた。『人は死して骨となる』といったタイトルだった。クールな人だった。

大臣は小林武治という人だった。静岡県選出の参議院議員で、もとは逓信省のキャリア官僚だった。戦後の公職追放で、上の方が一掃され、

45歳で事務次官になったが、若すぎてその後やることがないため、参院議員になったという人だった。彼があるとき失言をした。「予算案は我々(大臣が予算委員会の閣僚席で)が居眠りしていても、ところてんのように(だったか)通ってしまう」と。自民党が多数を占めている国会では予算審議なんて全く形式的なものだという“真実”を後援会かなんかの席でしゃべってしまったのである。吾輩もそれを聴いたら、うまいことを言うと拍手していたかもしれない。自民党の国対は野党に金をやっているとか、強行採決も野党のためにやっているとか、とかくなれあいの傾向があると指摘されていたが、それは水面下のことで、表向きには野党は真剣に与党の予算案や法案の問題点を指摘し、審議を長引かせれば野党の得点になるとみなされていたのである。そこへ、有権者へのサービス精神を発揮してか、ほんとのことをしゃべってしまったからたまらない。野党もカンカンになって怒るし、マスメディアも非難した。与野党の攻防の表面的な姿を紙面でもっともらしく伝えるのが報道機関というものなのだ。

 彼は辞表を提出した。国会開催中で、閣議は国会内の閣議室で開かれていた。そこへ入っていく姿を担当者として見ていたが、朝日の記者が

法務大臣の背中に向かって「天を恐れぬ不届き者め!!!」と大声で叫んだ。昔の院外団の壮士のような風貌だった。

小林さんは逓信省の役人だったので近くにあったのか麻布の蕎麦屋に記者クラブを招待してくれた。無論、経費は大臣交際費から支出されたのだろう。

法務省のクラブを持っているとき、2回抜かれた。一回は読売に罰金を4倍にというニュース。もう一つは、もう一つは沖縄返還絡みで、法制度の適用の問題で朝日。両方とも一面トップ。それ以来、マンションのドアの郵便受けに新聞配達が新聞を突っ込む音が聞こえると、ぱっと目が冷めて、一面トップを確かめに行くという朝が続いた。

火曜と金曜は閣議があった。閣議を公開しない代わりに官房長官が閣議の模様を官邸の記者会見室で発表した。保利茂という毎日の記者出身の大物だった。週の何回かは目黒区五本木の自宅で懇談というのがあり、官邸詰めの記者が各社一人ずつ出席した。懇談は取材先を明示しないで記事にしてもいいことになっており、政府筋はとか政権幹部が明らかにしたとことによると、と取材源をぼかして報道した。政権側は意識して、こうした形で情報を流した。一切書いてほしくない時は、「完全オフレコ」と言ってきた。この当番に当たると社旗を立てたハイヤーが自宅に迎えに来てくれて、官房長官宅まで行くのだった。記者が質問しても、ストレートに答えることはなかった。保利さんは、ウソを付くとき右だか左だかの耳がこのように動くと解説する人もいた。官房副長官は木村俊夫という人で、官房長官だったのに保利さんを長官にするため降格となったこともあり、大物だった。人柄が良く、ソフトな対応で、機密のネタも記者に漏らしてしまうと言われていた。

 秋の祝日の朝刊に朝日が「天皇皇后ご訪欧へ」と大特ダネを書いた。

祝日で取材先はいない。たまたま官房長官が記者クラブを招待するゴルフの日で、そこに参加した記者から入る情報で、必死に追っかけ原稿を書いた。書いたのは、もちろん先輩の記者である。

後の二年は自治省担当だった。クラブの名前は、内政クラブ。内務省時代の名残である。

法務大臣招待で蕎麦屋に行ったように、自治大臣招待で八重洲口の北海道池田町直営のレストランに行った。ビフテキを食べ、一同うまいうまいと称賛した。ところが、これはオスのホルスタイン。それを聴いて、ゲッといった記者もいた。なぜ自治大臣が招待したかというと、当時の町長はワイン町長と言われた丸谷というアイデア町長で、地方自治体の模範だと役所が持ち上げていたからである。彼はその後社会党から出て参議院議員に当選した。

派閥は、村上派から代わった水田派を持っていたので、水田大蔵大臣が地方に行くとき同行することがあった。あるとき、地方での会見で外国為替のことを発言した。とてもわかりにくく、回りくどかった。大分にいたとき、木下知事の発言を勝手に翻訳して、結局どういう意味になるのか、視聴者にわかりやすいようにサービスしてきた流儀で、思い切って言葉を言い換えて原稿を書いた。一緒に行った共同の記者が、「NHKに比べ、お前の原稿はわかりにくい」とデスクから怒られたというが、羽田に帰って、大臣は「俺はそんなこと言ってない」と言うし、迎えに来た田村元という派閥の代議士は「NHKが、そんな嘘を流しちゃだめじゃないか」と言った。かなりいい加減なところのあるタムゲンなので、“あんたにだけは言われたくないネ”と言いたかった。やはり迎えに来た事務の秘書官は馬術部の先輩だったが、経済に混乱を引き起こすような発言をしなかったということで。「大臣ありがとうございます」と言っていた。役人には興味がなかった。僕が、経済部の記者だったら、別だろうが。

水田三喜男は千葉県館山の出身で、京大卒。若い頃はマルクスボーイだったという。派閥の事務所で、夏暑気払いと称して、所蔵する浮世絵を展示した。ほとんどが、男女の交合を描いたものだった。大臣には護衛の警察官がついており、そのときもそばにいたはずだが、公然わいせつ物陳列罪で摘発することはなかった。

時々、夜回りとして派閥幹部の家に行った。基本的にこちらが小派閥にはなんの力もないとバカにしているのだから、取材に力が入らなかった。自分の担当は約不足だと不満だった。

NHK政治記者落第の烙印が押され、金沢放送局に転勤となった。たった3年の短い命だった。政権党の実態はほとんど覗くことができず、戦前匂いをかいだだけで総理大臣になれなかった男が鰻香首相とからかわられたことがあったが、まさに鰻香政治記者に終わった。

政策の問題では、公害罪法と宅地並み課税、小選挙区の区割りがあった。公害罪は、条文から「おそれ」という言葉をカットした。財界に配慮する党内世論に妥協したのだろう。その詳しいプロセスこそ、取り組むべき課題だったが、真実を暴き出す力が全く備わっていなかった。

宅地並み課税は、大都市に宅地を供給するため、農地の固定資産税を宅地並みにして土地を吐き出させようというものだった。農協などが強く反対して、自治省マターでは珍しく政治的な駆け引きの渦中で揉まれた。結局、農地として持ち続けたい人は、“生産緑地”の指定を受け、宅地にしないと誓約すれば、税金は農地のままということになった。今住んでいる杉並にけっこう農地っぽい土地がある。その地主は後悔していないのだろうか。その子孫はどうなのか。人間、絶対にこだわらなくてはいけないものは、そうはない。

選挙区割は、ゲリマンダーというものを監視するため、最初にできたものをなんとしてもゲットせよと朝日政治部は政局取材並みのエネルギーを投入して取り組むことにしたと聞いたが、実現の可能性が薄れ、熱意がわかず、結局取れなかった。審議会委員の細川隆元や松野頼三の家に夜回りをかけたが、無駄だった。細川は、「原敬は民主主義の神様のように言う人がいるが、鉄道を引くのに選挙に有利になるように曲げるなど、党派的な動きの盛んな人だったと言っていた。岩手県の大船渡線が曲がりくねっているのは、地形の障害のせいだけではないのだろう。

総理番をしていたとき、急に佐藤栄作総理が記者会見をすることになって、会見室の方ではなく官邸の玄関の方から会見室に入った。総理が発言を始めたが、なんか様子が変である。テレビはどこだ!と叫んでいる。

新聞は自分の言葉を正確に伝えないので、テレビで直接国民に話しかけたいということだった。しかし記者クラブ側は、当時は新聞中心で、慣例を

無視するということか、騒ぎ始め、「会見はやめだ!」と言って記者クラブに引き上げ、会見室の記者席はカラっぽになった。そして記者席で、NHKTVの記者会見の中継を見ていた。NHKの官邸クラブ員の上から4番目の正論記者が「中継を今すぐやめよ」と電話で社内のデスクに怒鳴り、

まもなく別の番組にかわった。今のNHKなら続けるかもしれない。

 佐藤栄作は口が固く、住んでいた世田谷区代沢にちなんで淡島にとくダネなしと言われたほどだった。佐藤番の思い出は官邸の小会議室に通じる通路で誰かが「那須での内奏で**を話したんですか」と背中から質問した。政治部一年生だから何でも訊いていいのである。ところが、栄作は「誰がそんな事を言ったか!!」とすごく大きな声で怒鳴った。ボクは、一瞬縮み上がってしまった。また、なんかの話のとき、彼は「ズロースをとってもとっても」というようなことを言った。どうして、玉葱の皮をむいてもむいてもと言わないのだろうと思った。そして、佐藤寛子夫人の顔を思い浮かべた。不謹慎にも……。兄の岸信介ならそうは言わない。

 官邸クラブの3番めの記者は外信部から出向していた小八重さんという豪快な人だった。学生時代ヤクザとかけ麻雀をして巻き上げられ、パンツ一丁になって、お姉さんに迎えに来てもらったこと、都庁のクラブ員の時は取材用のハイヤーをよんで駒形に行き、駒形どぜうで昼飯を食べたという。もっとも、その頃の都庁は、有楽町にあった。彼はワシントンの特派員のあと、官邸クラブに来たので、現金を100万円持っていた。アメリカでは人件費が高く、取材には自分で車を運転する。取材に使っていたマスタングを売った金だということだった。その金でよく銀座に行くなど、ごちそうになった。

亡くなったとき、彼は解説委員だった。死の床の枕元には、彼の訳したハーレクインの新書版の本が何冊かあった。本なら、何でもいいというわけでもあるまいと吾輩は思った。

 彼に、「今までに書いた記事でなにが一番よかったと思いますか?」と訊いた事がある。葬儀の記事だというのが答えだった。RFKのアーリントンでの葬儀かもしれない。たしかに人の一生を評価し要領よくまとめるのは、記者の能力が現れると言える。JFKに続く弟の死は、アメリカの民主主義の進展にとって負の影響が大きいと、世界史的展望にまで踏み込む必要があるかもしれない。それ以来、朝日の惜別という亡くなった人の評伝記事を興味深く読むようになった。

 彼から、見ておけと言われたものもある。官邸の一番大きな部屋で行われた沖縄返還の式典である。彼はOHK時代の沖縄放送局勤務の経験もあるのだが、歴史的なイベントだから見ておけというのだった。吾輩は本質はというものは、むしろ目には見えないところに潜んでおり、目に見えるものはたいしたものではないと思っていた。後日、沖縄出身の後輩の記者から、現地には、“反戦復帰”と“日の丸復帰”と2つの流れがあったと聞かされた。「沖縄が帰らない限り日本の戦後が終わらないことは、よく知っている」と述べた佐藤栄作は、日の丸復帰で十分だったろう。

 

金沢放送局

1973年夏、夏休みで両親も含めて、家族で館山にでかけていた。「局に上がってこい」と言われて行ってみたら、金沢への転勤の内示だった。当時、ホンダライフという360ccの排気量の軽自動車に乗っていた。恭子はそれで小平市の緑成会という病院に通っていた。小金井から五日市街道で喜平橋まで行き、北上する。長男は病院内の保育園に預けるが、長女が小学校に入ったあとは、小金井まで戻って病院に連れてくるという毎日だったような気がする。

その軽自動車で金沢に行った。途中、名古屋の内池くんの家に泊まった。彼は僕の人生で唯一の友人で、

恭子の従兄である。東大の理Ⅰに現役で合格したが、安保闘争にのめり込み、留年したうえ、人気のない造船工学科に進学、実習で行った静岡県清水市の美保造船という500トンクラスの漁船を作る中堅か中小かの企業に就職した。既に4年生のとき中学時代の同級生(吾輩もクラスメイト)と結婚、子供ができた。

清水にいたとき、県立静岡薬科大学に通っていて静岡に下宿していた恭子が表敬訪問したそうだ。彼が仕事から帰ってきていなかったので待たせてもらった。そこに彼が帰ってきた。別の部屋で着替えるとき、奥さんに「あれは誰だ」と訊いたという。だから、恭子は彼が嫌いだった。子供の頃、お互いの母親の実家の福島の旧家で顔を合わせたときも、彼は蔵で本ばかり読んでいて、お高くとまっていたという。一年浪人して。吾輩も彼と同じ大学に入ったので、妻は僕も彼の同類だと見て敬遠しているように見える。彼は、美保造船にいた人に誘われて美保造船を飛び出し、三重県の四日市に同じような種類の造船所を作って、重役になった。住んでいたのは、名古屋の名古屋大学の正門の近くの家だった。

 当時は、太平洋岸と日本海沿岸を結ぶ高速道路はなく、大層時間がかかった。また、ホンダライフは長時間走ると、エンジンのリスタートができなくなった。

バッテリーがドロップするのでなく、スパークプラグ火花が出ないのかエンジンが掛からない。エンジンをスタートさせようとキーを右の人差し指で時計方向に力を入れて押し続けるため、第一関節のところに跡が付いてしまうほどだった。

 富山について、左折して国道8号線を走り、ようやく金沢に着いた。しかし、NHKの局舎が見つからず、お城の周りを何周も何周もした。当時はカーナビがなかった。本の地図しかなくて、自分が地図のどこにいるのか把握できなかった。

後に盛岡に赴任したとき、どんなに酔っ払って帰っても、水落しを忘れないように」と言われたのだが、金沢での金言は「弁当忘れても、傘忘れるな!!」だった。空が晴れているように見えても、あっという間に曇り雨模様になってしまう。男心か女心かどちらでもいいが、天気が変わるのにはまいった。放送部は10時からの勤務なので、野々市町の寮を早く出て午前8時頃から兼六園のコートでテニスをしたが、管理人が「今日は駄目だな!」というと、本当に雨になった。

 クラブは、金沢市役所、経済(商工会議所にクラブがあった)、県政クラブ。

 最初に担当した金沢市役所。県の人口120万のうち、1/3の40万が金沢市民だった。昔、四高があり、

北陸で一番の町で、建設省関係は新潟だったが、他のブロック官庁は揃っていた。高裁の支部もあった。

加賀百万石の城下町で、武士向けの東の廓、町民向けの西の廓、中間の主計町と、遊郭も3つあった。深窓の麗人も沢山いたはずだが、お目にかからなかった。

NHKの金沢放送局に勤務した人間は、和倉温泉の加賀屋に一万円で泊まれた。ボクの行く前に金沢放送局にいた菅家というディレクター(福島2区選出の代議士だった菅家喜六の息子)のおかげでNHKの職員にはサービスしてくれた。しかし、金沢局にいても東の廓に行った人間はあまり多くはなかったろう。ボクは、2回行った。『朱鷺の墓』という五木寛之の小説にも東の廓が出てくるが、五木夫人は金沢市長だった岡良一の娘であり、岡さんのところに夜回りに行ったとき、30前後の大新聞とNHKの記者の僕たちを連れて行ってくれたのである。京都でもそうだろうが、一見客は上がれないのである。もちろん、もともとの廓としての基本的なサービスはなく、酒を飲みながら、踊り、三味線、唄を鑑賞するだけだった。東の廓は武士の利用するところだったので、敵に襲われた際逃げられるように逃げるルートが有り、これですと解説してくれた。客も太鼓を叩くというのがここの特徴だった。金沢で宴会をしても、芸者を呼ぶことはご法度だった。花代をともかく、お返しに廓に行ってのまなくてはいけないので、その費用のほうが高いというのが理由である。もう一回は、亀岡高夫が建設大臣になり金沢に来たとき、奥田敬和が料亭で彼をもてなし、その席に呼ばれて、その後に行った。亀岡さんは別の席に行った。きっと、独りで金沢一の美妓のもてなしを受けていたに違いない。

これは美人だという人に、めったにおめにかからなかったものの、日銀金沢支店には何人かいた。正月3日に金沢発の全国放送で兼六園から生中継する、加賀友禅を着た若い女性を45人調達してくれと言われ、日銀の支店長に頼んで秘書課の女性行員の出演を斡旋してもらった。中継をプロデュースしたディレクターから感謝された。彼女たちとはテニスで交流し、プレゼントを交換したりした。その時もらったコーヒーカップをずっと愛用していたが、残念なことに数年前に落として壊れた。

 八台機屋やガチャマン景気という言葉もあり、経済の原稿は、繊維産業や繊維機械の景気がメインだった。

 市役所のクラブは、国会や省庁に比べて二段階下であり、のんびりしていた。11時半ころ広報の係が来て、金沢で今年はじめてのインフルエンザが発生しましたと発表した。ケチな話と思って相手にしなかったが、社のデスクに電話すると、「生ネタがないからすぐに送れ!!」という。慌てて毎日の立山くんという記者に要素を聞き、勧進帳(原稿を原稿用紙に書かないで、頭で作文して吹き込むこと)で電話送稿した。お昼のローカルニュースのトップだった。教えてくれた毎日の記者は、ボクを“NHKの天下国家記者”とからかった。「インフルエンザの患者が一人や二人出たといっても天下国家には関係ない」と、会見が始まるときに発言したらしいのである。

 市長選挙か市議会議員選挙かの時に立候補予定者がクラブに来た。「第2次世界末期にソ連が急遽宣戦布告して満州や樺太で邦人が陵辱された、露助はカツレオオカミだ」と悲憤慷慨していた。ホームレスのような風体で泡沫候補間違いなしだったので、脅したりすかしたりして(供託金没収のことも教えたかもしれない)、立候補を食い止めた。被選挙権は基本的な権利であり、許されない行為だが、あまりにも品位のない立候補予定者だった。

市役所の広報係の案内で輪島に釣りに行ったことがある。日本海に舟で出て、タイを狙ったが、全く釣れない。舟によってしまって、ともで寝転んで星を見ていた。立山くんの奥さんも一緒に行ったが、彼女もよい、同時に反対側の舷側のともで寝転んだ。二人とも吐くほどには酔わなかった。

 朝日の川西くんと読売の岡田くんと三人で加賀宝生の職分(プロ)に謡を習った。昼は県教委の庶務係長だが、プロの能楽師で兼六園の近くにあった能楽堂の一室で稽古した。

最初に先生が私について一緒に声を出してくださいと言って、「うぅー……」と腹の底から声を出した。天真爛漫で永遠の少年の川西くんが思わずプッと吹き出した。釣られて先生まで大笑い。最初は橋弁慶、紅葉狩もやったし、結婚式でやれるようにと高砂やの一節も教えてくれた。そのうち、能楽堂は使えなくなって、先生の家に行って習った。小習いという免状も貰ったが、いつのまにかやめてしまった。

 能登は石川2区だった。政治部で持っていた派閥の稲村左近四郎は羽咋に家があった。一度家に行ったら車代と言って2万円よこした。これをもらうとクビになると言って返したら、カネを受け取らないのは、朝日と君だけだと言った。国会議員につっかえししたら失礼だという気持ちの記者が多いのだろう。こちらは議員といっても、ちっぽけな奴と思っているので、貰ったら沽券に関わるのである。政治部のときも大野明という伴睦の四男で顔が一番似ているので後継者になったという代議士から仕立て代付きの背広生地を貰ったが、返した。

 石川2区はもともと益谷秀次という大物もいた保守王国。七尾には宏池会の瓦力、穴水には三木派の坂本三十次がいた。瓦さんの家に泊まったことがある。女の子が三人生まれ、スリーボールノーストライク、加藤紘一はツーボールのあとワンストライクだと言っていたような気がする。彼の支持者で土建関係の人が「工事を受注しても、建設局からスタートの合図がなかなか来ないので、探ってみると、稲村左近のところに挨拶に行かないから役所が止めている。工事代金の何分の一かを持っていって挨拶しないといけないので困る」言ってきたそうだ。左近さんはその後、繊維不況の対策に絡んで汚職の疑いが浮上し、検挙された。

 県政クラブを担当している時は、中西陽一という知事にからかわれた。政治部にいないので腕がなるだろうというのである。知事室にはあまり行かなかったが、彼の方がよくクラブに遊びに来た。地元紙よりも中央紙やNHKの方が話しやすい。もともと昭和17年内務省採用の国家公務員である。京都の出身で、石川の政界ではお公家さんのように見る人もいた。彼だって中央で活躍したいのに人口120万の県でくすぶっているという気持ちがあったのかな。知事公舎に何回か行った。カセットテープを出してきて、歌謡曲を一緒に歌った。カラオケのようなことをやっていた。先見の明があった。学徒動員で主計将校になり中国で終戦を迎えたという。引き揚げのとき貨車で港に向かったが、女性は下車して小用をすると列車が発車してしまい現地に残された人もいたと淡々と話していた。

赴任したとき無料だった兼六園を彼が有料にした。

クラブに来たとき、好きなとき自由で入れる兼六園あっての金沢であり、絶対有料にすべきでないと主張したが、きいてもらえなかった。

金沢市長の岡良一は精神科の医者だが、軍医といて中国にいて、従軍慰安婦の梅毒検査が主な仕事だったということだった。「朝鮮人が痛い痛いと行ってぴーぴー泣くんだ」と言っていたような気がする。重要な話でないと聞き流したので、よく覚えていない。

 厚生大臣が金沢に来て、たまたま幹事社だった北國新聞とNHKだけが記者会見に出た。医療費改定の部分を後輩記者に書かせて、だいぶ手直しし東京に送って全国放送された。会見に出なかった他の社からだいぶ文句が出た。

 県が予算案を編成すると発表の前に地元紙に出た。案がまとまると政党に内示するのでそこで取るのだった。敵は自民党から取材していた。県は大臣折衝のように自民党に説明し、そこで出た意見を踏まえて修正し、それを社会党に説明していた。事前にアポを取ったうえ、社会党の書記長に取材して、朝のニュースに入れた。北國新聞の朝刊と違って実際の予算案の金額と同じだった。ちょっと知恵を絞っただけだった。

 寮のあった野々市は放送のアンテアの敷地で、原野のようなスペースがあった。照明用のライトを何本か放送局から持ってきて、夏の夜パーティーを開いた。

金沢大学出身のアナウンサーがいて、四高の寮歌を朗々とフルコーラスで歌った。『北の都に』『南下軍の歌』、よくあんな長い歌を覚えていたものだ。

 平家にあらずんば人にあらず、政治部にあらずんば職場ではあらず。ふてくされて真面目に働かなかった。

 東京にいたとき、テニスを始めたがちっともうまくならなかった。金沢でテニススクールに2期連続して通った。少しフォアは打てるようになった。

 県庁などには記者クラブ用の駐車スペースがあり、車で通った。中古で日産ブルーバードUの電子制御エンジンの車だった。エンジンは掛かったが、冬に

吹き溜まりに突っ込むと、エンジンルームが雪の塊の上に乗って、前進後退を繰り返しても脱出できなくなり、トランクに入れてあるスコップで雪を取り除かなくてはいけなかった。雪の上で動かなくなると亀が甲羅の下を固定されて、手足をばたばたさせているような感じだった。

 金沢には妙立寺という寺があった。忍者寺である。伊賀や甲賀の忍者屋敷と違って、地下で金沢城とつながっていると言われ、親藩の福井から敵が攻めてきたときいち早く情報をキャッチするための前線基地だった。加賀百万石といえば聞こえはいいが、所詮外様大名であり、取り潰せられないか、じぃっと息を潜めて数百年過ごしてきた。今でも中央政府に対して警戒心と対抗意識があったのだろう。それは仮面の下に隠されていた。でも、忍者寺が立ち位置を見事に物語っていたのである。観光するにはいいが、住むところではない。京都と同じである。まあ、心を開いてくれる人を見つけようと努力しなかった怠慢さのいいわけだけど……

 

名古屋放送局

 1978年8月、名古屋放送局に転勤。記者としてでなく、TVニュースのコメントだった。記者クラブで取材するのでなく、カメラマンの撮影したフィルムをフィルム編集の担当者(高卒が多かった)が編集し、それに合わせて、記者の書いた原稿を貼り付けてアナウンサーに読ませる原稿に仕上げる仕事である。そして、TVニュースの放送の時は、副調整室に座ってアナウンサーや技術職員にQ(合図)を出して、放送を送出するのである。取材に対して編集ということになるが、原稿はニュースデスクが編集するので、その範囲内で映像に合わせるだけで、軽い立場なのだ。内示された時、懲罰を受けたような気がして送別会に出るのを拒否した。

 毎日、放送局に行くのは初めてだった。仕事はカメラマンの撮影したフィルムが現像されないと始まらない。放送時間に合わせて数回しか現像しないので時間が余った。放送局の中庭にテニスコートみたいなものがあって、運転手さんがテニスをしていた。暇な時は中庭でテニスばかりしていた。よく上司に怒られなかったものだ。苦々しく思っていたかもしれないが、何も言われなかった。ふてくされていた心情が哀れだったのかもしれない。記者クラブにいた時は麻雀ばかりしていたが、これは上司には見えない。彼らも、記者の時はそうしてきたのだ。初任地の時、「記者はヤクザみたいなものだ」と言って、2年先輩の記者からこっぴどく叱られたが、定時出勤定時退社の普通のサラリ-マンとは、記者はちょっと違う人種なのだ。

 あまりにふてくされていたからか、政治部にいた関係で選挙班の事務局を担当されられた。名古屋放送局は、JOCKがコールサイン。AKが東京、BKが大阪、全国で3番目の放送局だった。当時は中央放送局と言って、静岡、三重、岐阜、富山、石川、福井と地元の愛知の7県が管内だった。選挙の報道はNHKにとって災害報道とともに非常に重要なもので、衆参の国会議員選挙があるときは徹底的に準備作業をした。立候補予想者や選挙情勢の取材に力を入れ、開票速報の際に当選確実を素早く確実に出せるよう必死で頑張ったものだ。

 こうした取材を抜かりなく行うため、本部(東京)から、しょっちゅう調査依頼や連絡が流れてきた。それは、まず中央放送局に流れてきて、それを各県の放送局に流す、そして調査依頼の回答は中央放送局でまとめて東京に送るのである。それには、締め切りがあるがそれより前に中央放送局の締め切りを設定し、各放送局に報告してもらった。

 寮は瑞穂区田辺通にあって、近くに瑞穂競技場や桜のきれいな山崎川があった。そこに大きな屋敷があり西川鯉三郎が住んでいた。長男は瑞穂競技場のラグビースクールに通っていたが、ボクの転勤で途中でやめた。

休日は守山区志段味にあったテニスコートに通った。報道部だけでなく、色んなセクションの人とプレイをした。職場でやっていた運転手さん、農水のディレクター、アナウンサー。中林さんというアナウンサーとよく、そばを食べに行った。必ず蕎麦湯をたっぷり飲んだ。それでおなかがいっぱいになった。彼から湯桶(ゆとう)よみというカテゴリーを教わった。重箱読みの反対である。当時は、職場の親睦を強化するため、レクレーションという制度があり、一泊二日の休みをとってグループで旅行した。テニスをするため岐阜県に行ったりした。

 昼飯はテレビ塔の下のセントラルパークで食べた。(加藤登紀子の父親が経営者ときいたような気がする)ロシア料理のレストランでボルシチやピロシキを食べた。夜はライオンというビアホールに行った。

麻雀をした雀荘はCKという名前がついていたが、JOCKのCKでなく、オーナーが片岡千恵蔵だかだということだった。時々、背の低い顔の長い老人が麻雀をしていて、それが千恵蔵だと言われたが、本人ですかと確かめたことはない。林家木久蔵なら、「そんな馬鹿な、もったいない」といっただろう。東京から大切なお客さんが来ると、いば昇という店にひつまぶしを食べに行った。たまにボクもお相伴して食べることができた。自分のカネで行くときもあったが、「さいごに、茶漬けにするのだ」と偉そうに食べ方を講釈する記者の後輩がいて、癪に障った。スパゲッティの店に行くと、並の他、1.2・1.5・1.8と何段階かの大盛りがあり、親切といえば親切なのだが、営業精神も旺盛だった。

 TVコメントを2年やったら、部内異動でまた記者になった。愛知県政クラブを担当した。

 県会議員とゴルフをしたこともある。ドッグレッグのコースで、打ったボールが極端にスライスしグリーンにのって、バーディになったこともある。しかし、殆どはショットをコントロールできなかった。

 県政記者は1年間だった。仲谷さんという知事で、自治省採用で、桑原幹根という大物知事の時、見込まれて後継者となり当選した。奥さんは桑原氏の秘書だった。知事公舎のコンクリートの部分でよくテニスをした。相手は運転手の職員、こちらは他の社の記者か秘書課の職員か覚えていない。渡辺といったか、とても強く、こちらが頑張っても知事のペアが勝つのでご機嫌だった。彼はその後自殺した。原因はわからない。気の弱い人だったのだろう。

 1964年に東京でオリンピックが開かれたが、夢よもう一度ということで、名古屋が夏のオリンピックに立候補した。これは名古屋市が主体だったが、県政キャップのボクが同行取材しろということになった。

行ってみたら、CBCのロンドン特派員(JNN系列)とNHK名古屋放送局のボクの二人だけが同行記者だった。パリについて、スイスのローザンヌに行き、

ドイツのデュッセルドルフでIOC委員に投票を依頼し、バーデン・バーデンという温泉地にも行った。

東海銀行の三宅という頭取が名古屋財界を代表して同行しており、東海銀行の現地スタッフがいろいろ手配してくれた。レストランでフランス料理を食べたが、愛知県を代表の鈴木礼二副知事は、「オニオンスープを飲みたい」と言った。東海銀行の世話係は、「味が強すぎて、その後の料理の味がわからなくなる。おやめなさい」と盛んに諌めるのだが、副知事はいうことをきかなかった。県庁では、“れいさま”と知事より人気があった。仲谷さんはおつにすましたところがあり、村夫子然とした鈴木さんのほうがとっつきやすかった。彼も自治省採用組だった。彼は後に知事になった。記者を味方につけようとしたのか、彼に誘われてゴルフをしたこともある。

当時、磯村尚徳はヨーロッパ総局長でパリにいた。セーヌ川の左岸のレストランでランチかディナーをごちそうになった。記者は取材が一番だと思っていたボクは、NCナインで人気のあった彼は本当の記者だと思っていなかったので、「あんたが記者を駄目にした」とつっかかった。

 ローザンヌでは持っていったカメラで、立候補の書類をIOCに提出する本山名古屋市長を撮影した。これをスイステレビで現像し、記者リポートをする我輩の音声入りの動画とともに、現地の若い女性が編集して東京に伝送した。女性は日本語がわからないので、乗り換えるところは、言葉の切れ目と全く合っていなかった。ジュネーブの支局長は萩野さんという先輩で、

よく世話をしてくれた。支局の車はランドローバーのジープのような大きな車で、運転しにくいので、もっぱらアルジェリア人の助手に運転させているとこぼしていた。前任者が木村太郎で、雪の降るスイスではこれでなくては駄目だと強く主張したのだそうだ。

 ジュネーブの旧市街は美しかった。ジャン・ジャック・ルソーが出てくるような気がした。

 県議会を取材している時、民社党の幹事長に議事堂で話を聞こうとしたら当然逃げ出した。微妙な段階ではなしたくなかったのである。走って追いかけコーナーになっているところに追い詰めたら、「しゃべるから、追いかけるのをやめて!!実は心臓のペースメーカーをつけているんだ」と告白した。新人の頃、朝日の大森くんと遠洋漁業で遭難した家族の家に行って遭難者の顔写真を借りる際、「自分の家族なら絶対に協力しないよナ」と言い合った事がある。当時は、メディアスクラムなどという言葉はなかった。マスコミは第4の権力だった。僕らの鼻息は荒かった。

 県政記者になった時、社会部や政治部にボクより長くいた同期の記者はデスクになっていた。ボクも泊まりの時はデスク扱いで初動の判断をせざるをえなかった。金城大学の女子学生が誘拐される事件があり、県警の発表で木曽三川のどこかの川の下流で女性の遺体が発見されたと泊まりの勤務中に連絡が来た時、すぐにそれをTV画面にスーパーし、取材スタッフに連絡した。社内的には褒められた。結果的にそれが誘拐の被害者だった。

 1981年6月、隣の三重県の津放送局のデスクに異動した。大分、政治部、金沢、名古屋の4箇所で通算16年の取材記者生活は終わりを告げた。

 

 

津放送局

 1981年6月管理職になって津放送局のニュースデスクになった。管理職といっても組合員管理職だった。津放送局は三重県をカバーしていたが、出している電波は、テレビはUHF、ラジオはFMのみだった。NHKテレビを見る場合、津から北の四日市、鈴鹿、桑名などは名古屋から放送されるVHFの3チャンネルも見えた。わざわざUHF31チャンネルを合わせなくともVHFのままで見られるので、津放送局から出す電波を見てくれる人は少ないのが実情だった。TBS系のCBC,フジテレビ系の東海テレビ、テレビ朝日系の名古屋テレビも見えるのでVHFのチャンネルしか見ない家庭が多かった。そこで名古屋から放送するニュースを含む地域番組は同じUHF局の岐阜と三重の県域の情報もバランスよく盛り込んで出すことになっていた。3年間名古屋局にいた吾輩なので、その辺の呼吸合わせることができた。津ニュースの取材・編集したニュースを見てもらうためには名古屋放送局に伝送して名古屋から放送してもらう必要があった。半人前の放送局だった。

 子供の教育の関係か、単身赴任の管理職が増えており、小さなUHF局で7~8番目の序列だったと思うが、住まいは局長舎宅だった。局から歩いて2~3分、放送局のすぐ近くにうなぎ屋があってウナギを焼く匂いが住んでいた局長舎宅にも漂ってきたような気がする。2階建ての広い家で、二人の子供は津高校(旧制津中学の後身)に進学したが、文化祭などで電車がなくなり帰宅できなくなった同級生が何十人も家に泊まったことがある。家の近くに朝日生命の支社長が住んでいてよく招待券をもらったりしたらしい。また、その家のお嬢さんのおかげで、娘はアメリカにホームステイに行き、それが英語を身につけるのに役に立ったと思う。そして、早慶上智の一角に現役で入れたのだ。

 最初の2年間は専門記者としての2番目の、後の2年間は副部長として1番目のニュースデスクだった。記者、カメラマン、ビデオ編集のメンバーの中心としてニュースを取材し、原稿やビデオ(早期はフイルムだった)編集し、技術職員の協力で、アナウンサーに原稿を読んで貰い、ブロードキャストするのである。

 普通の放送局には、放送部があってニュース班、制作班、アナウンス班、編成班があった。制作班は東京であれば番組制作局が作る番組を作る。ローカル番組、管中番組、全中番組である。ニュースは取材し放送するが、そのニュースバリューによってローカル、管中、全中となる。管中というのは、北海道、東北、関東甲信越、中部、関西、中国、四国、九州沖縄の各ブロックの範囲で共通のものを放送することである。

 規則の上では放送の編集権は経営陣のトップである会長にあることになっている。しかし、細かいことをいちいち会長に伺っている暇はない。だから、現実にはニュースはニュースデスク、番組はプロデューサーが責任を持って決定する。記者やディレクターが取材結果を基に書いた原稿やスクリプトをベテランの立場から見てチェックし問題がないように調整して放送に出すのである。

 ニュースというのは起きたことをフォローする傾向があるが、番組はまず企画が先行するわけで、それを採用するかふるいにかけるという大切な作業がある。

 三重県には伊勢神宮があり、総理大臣は必ず年頭に参拝して記者会見するし、天皇も即位すれば報告に来る。人口や工業出荷額の割には格の高い県だが、NHKの放送局としては、県全体で見てもらえず、格が高いとは言えなかった。

 事件事故もあまりなく、ニュースのネタに困った。鳥羽湾の菅島というところに自衛隊のC1輸送機が2機墜落して、全員死亡する事故があった。悪天候で視界がきかなかったので飛行高度が島の山の標高より低かったことに気づかず、多分水平に山腹に突っ込んだのだろう。前線デスクとして、警察担当の記者と2人だけで島に渡り、彼が現場リポートをするのをサポートした。2機分の機体の残骸と遺体の散乱している島にいるより、六本木(当時の防衛庁のあったところ)でないと何があったのか把握できなかった。雨が続いてびしょ濡れになり、上位局の名古屋のニュースデスクが着替えのパンツとシャツを持ってきてくれた。同期の記者だったが、実によく気の付く奴だった。

 松阪の奥で集中豪雨の際に土石流が発生し数軒の家が流され、数人の死者行方不明が出た。川の上流が現場であり、川岸の道が川の増水で不通になったため、徒歩でしか行けない事態になった。組合員ではあるが専門記者の吾輩がカメラマンと現場に行けと指令が来た。2時間ほど歩いて現場に到達した。カメラで撮影することがメインで、まもなく引き返したが、本当にくたびれた。ニュースセンター9時用にリポートを収録したが、同期のディレクターが駄目だという。くたびれて元気がなかったようだ。行き途中上空をゆくヘリコプターを見て、何故竹槍で戦争をするマネを自分がしなくてはいけないんだとハラがたったことを思い出し、怒ったようにしゃべったら、そのディレクターがOKと言った。

 休みにはあちらこちらに行った。伊勢神宮に行くと、赤福を食った。苦いお茶もおいしかった。車で行くと奈良も近かった。

 職場のレクレーションでは瀞八丁や新宮。京都になすで有名な料亭(渡月橋の近く)にも行った。四日市通信部の記者が宝塚のファンで,宝塚の舞台も見た。東京宝塚劇場に行く気にはならない。貴重な経験だった。

 娘がアメリカにホームステイしたお礼奉公ということで、アメリカ西海岸の老夫婦のホームステイのホストをしたこともある。夫は中学か高校のカウンセラーをしていた人で、「津に来る前にステイした家で主人が陽気になったり陰気になったり極端に変わった」というので和英辞書で躁鬱症を調べ、そこを指して、「これか?」と言ったらそうだという。それから向こうは英和辞書、当方は和英辞書を手に持って会話した。

両方の奥方は余りしゃべらなかった、向こうの奥さんは亭主に英語で言って通訳させて済ましていた。当方の奥さんはアルカイックスマイルでごまかしていた。亭主は,商品の値段に非常に興味があり、スーパーなどに行くと野菜などの値段を盛んに訊き、ドルに換算するといくらになるかをせっせと計算するのだった。おかげで、鳥羽だったか、海女が潜水するところを、VIP用の席で見学できた。

 新人記者の時、大分県警の捜査2課長に自分の仕事で一番大切なことは何だと思うかと訊いた。彼は中央大学法学部の出身、警視庁で巡査をした後、三級職の試験に合格して警察のエリートコースに参入した男で捜査2課のベテランは、「彼は取り調べでうまく調書を書くことができないだろう」と反発していた。ここでいう調書とは、想定した犯罪行為に沿って構成要件を満たすように作成し、裁判で公判維持できるように仕立てられたものをいうのである。新任の捜査2課長は、「それは樹立判断だネ」と言った。内偵か告発かでキャッチした容疑事実が立件できるかどうかの判断だというのである。記者の場合も同じである。これがニュースになるのかどうかの判断が勝負なのだ。新人の頃は警察を回る。彼らが、こっそり騒いでいればニュースバリューの大きなニュースが隠れていた。記者の経験を積まねばニュースバリューの判断はできない。だから、新人はまず警察取材から始める。経験を積んでくると本能的にニュースバリューの大小は判断できるし、どの程度戦力を振り向けるべきかも分かってくる。しかし、時の流れともにニュースの中身は変化する。昔は、「犬が人を噛んでもニュースでないが、人が犬を噛めばニュースだ」と言われた。しかし、犬は(肉として供される場合は別だが)人の命令に従い任務を果たすか、愛玩用で噛んで危害を加えることは滅多になく、幼児などをかみ殺すことがあれば今は大ニュースになる。ペットとして飼われているものが人間様を殺すなんてもってのほかのことなのである。

 ニュースデスクとは記者が持ってくるネタを見て判断し、ニュースバリュー-によって対応を考えるのが主な任務だった。

 能登はやさしや土までもと言うが、伊勢も優しい人が多かった。グリーンテニスクラブという久居に行く途中の山の中のテニスクラブに入った。西井という医者の夫婦と仲良くなり、その後東京に来てから奥さんが上京したときにあった。彼女は四日市に医者の娘で東京女子大出身だったような気がする。その後、まもなく病気で亡くなった。また、川畑さんとは、NHKのグラウンドでテニスができなくなって入ったテニスクラブであった。夫婦で会員だった。ナショナル電工に勤務していて全国を転勤して歩いたらしい。「NHKの八鍬という人なら長野か津にいなかったか」と訊かれて、以前に同じテニスクラブにいたことが分かった。西井夫妻のことも覚えていた。 日本鋼管の社員もいたようだ、西井先生は内科か小児科だったが、川井先生は外科だった。川井先生も西井夫人も早くなくなった。

 三重県はNHKでは名古屋が中央放送局の中部地方管内だったが、紀伊半島の一部で関西地方のようでもあった。

 中部7局の1局のデスクとして名古屋の会議に出た。3年居た名古屋局だったが、近くのアイガーという名前の店でスパゲッティーのカルボナーラを食べた。クリーミィなスープがたっぷりあって、本場のカルボナーラから見たら、邪道だろう。名古屋名物の味噌煮込みうどんはあまり好きではなかった。

 津ではよくみんなで松阪の『サルート』だか『サルーテ』とかいう店にスパゲッティーを食べに行った。

 2年たって副部長デスクになった。非組合員になるので名古屋で研修があり、NHKの総医長の医師が講演をした。「肉を沢山食べるようになったので、これからは日本でも大腸がんが増えてくる」という内容だった。それ以来健康診断では、バリウムか内視鏡による大腸検査を続けるようになった。大腸内視鏡検査は下剤で大腸をきれいにするのが大変なのだが、中村総医長の一言は私には大きく響いたのである。

 

盛岡放送局

 1995年6月盛岡放送局に転勤。ニュースの副部長だった。UHF局から普通の局への異動でちょっとは格上げだった。単身赴任で寂しかった。徳正荘というアパートで冬は氷点下15度くらいになった。父の国民休暇村の支配人仲間で照井さんという人が居た。雫石か宮古の休暇村の支配人だった。その人のものだった。父は私と違って、同僚の評判がよく、おかげでとてもよくして貰った。

車で出かけると、氷点下15度くらいのときはエンジンがかかって走っても15キロか20キロしかスピードが出なかった。いくらアクセルペダルを踏んでも。それより困ったのは、水道の凍結を防ぐため、水落しをしなくてはいけないことだった。金沢に行くときは、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われたが、盛岡では「酔っ払って帰っても、水落しは忘れるな」というのが親切な必須の忠告だった。水落しを忘れてしまうと、夜中に家の中を走っている水道管の中の水が凍ってしまい、水道が使えなくなる。水洗便所も一切利用できない。それだけでなく、春になるとポタポタと水が漏れ始め、下の階の家にも落ちて迷惑を掛けるというのである。これを防ぐには水道の栓を開けっぱなしにして勢いよく水を出しながら、家の外にある元栓を閉める。これによって家の中の水道管の中の水を抜かねばならぬ。それを氷点下15度でも外に出てやらなくてはならない。北海道が初任地のアナウンサーは現地採用(現地の人と結婚すること)が多いのだが、これは、独身だと家に帰った時、部屋が寒くて耐えられないからなのにだと聞いた事がある。盛岡が初任地だったら、水落しをして貰うためだけに、盛岡メッチェンと結婚していたかもしれない。しかし、津に妻と高三と高一の子どもと妻を残して単身赴任だったので、単身でしばれる厳寒と孤独に耐えなくてはいけなかった。これが一番の問題で、家の中から元栓を閉めたり、水道管をあたたかく保つ装置を設置したりできればよかった。地球温暖化といっても陸奥(みちのく)は寒いのである。また、雪が降った後は道路から2030センチほどの雪が残り、車が通ると轍ができる。それが、なぜか、3本なのである。昔、年上の従兄が4人居た天沼の伯母の家には3本のレールで走る模型の電車があった。真ん中のレールは車両の下に付けたベロのような端子が接し、両側のレールの上を走る車輪をもう一つの端子にして電流を流しモーターを回す仕組みだった。HOゲージというのは両方のレールの車輪の間で電流を流す仕組みで、3本レールはその倍のレール幅だった。その3本レールの模型電車を思い出させるものだった。これは、両側から車が来たときには、どちらかが新たな轍を作る必要があり、厄介だった。

単身生活は、ご飯を作るだけでなく、片付けもしなくてはならず、本当に面倒だった。転勤が決まったとき、長女は高三、長男が高一で、長男は転校したくないと言った為、単身を選ばざるをえなかった。上の子に続いて下の子が東京の大学に入ったあとは妻が合流して単身生活におさらばできた。岩手大学のキャンパスの東の方にあった管理職用一軒家に引っ越した。この家は、北海道大学ほどではないが、相当広いキャンパスの岩手大学が近く、旧制岩手高等農林当時の校舎も残っており、何十年か前には賢治もここを歩いていたのかと思うと深い感慨を覚えたものである。

 盛岡市の中心部にはお城の跡も残っていた。「空に吸われし十五の心」と啄木が夢想したのは、どの辺だったかと歩きながら想像した。衣川に行って、強者どもの夢の跡では、何百年も前のことに思いを馳せることはなかった。中尊寺も藤原三代の栄華も興味はなかった。むしろアテルイなど、中央の権力にまつろわぬものの方が共感できるような気がした。

 北上川は前九年の役、後三年の役の舞台だった。まつろわぬもの達の住んでいたところである。そういう意味では奥州列藩同盟に所為で明治維新後冷遇された東北出身者で権力の中枢に上り詰めた原敬、齋藤實、米内光政はたいしたものである。原敬の号は“一山”、いっせんと読むが白河以北一山百文という意味である。東北のブロック紙は河北新報。白河から北が東北。東条英機も祖先は南部藩のお抱え能楽師だった。

 盛岡に居た間によく行ったのは盛岡市内の大慈寺と原敬記念館、花巻の賢治記念館、玉山村の啄木記念館だった。大慈寺には、原敬墓と大きく彫った墓石があった。隣に同じ大きさの原淺墓という墓が並んでいた。パリのモンパルナスの墓地にあるサルトルとボーボワールの墓も全く同格の扱いだった。北上川の対岸の原敬記念館には、東京駅で刺されたときに来ていた血染めのYシャツが展示されていた。賢治記念館は童話だけでない多角的に活躍した賢治の人間像を表す展示物があった。啄木記念館では代用教員として啄木が弾いていたのか、古ぼけたオルガンがあり、音を出していた。

食べ物では、そば。大慈寺のすぐそばのしもたや風の店がおいしいような気がした。また、中心部に近いとこの『およねそば』にもよく行った。およねというのは

少女の名前で、年貢をまけて貰う為、自分の貞操を領主に捧げて村人に感謝されたと言い伝えられている。まるで、ヨーロッパの中世の領主の初夜権であるが、ボランティアと受け止められて居たのだろう。やませや冷夏で米のできの割ることが多かった奥州の貧しさを象徴する出来事でもあった。

そばと言えば、わんこそばというのもあった。盛岡に東屋という店があったが、花巻が発祥という話もあり、一関にもあった。花巻にもあったかもしれない。

 仕事は楽しいものではなかった。最初の二年は副部長デスク、後の二年は放送部長だった。報道責任者として桐花会という記者クラブのような各社との連絡会のメンバーになったが、これは誘拐事件が発生して警察が協定を結ぶよう報道機関に申し入れる際、受け皿になる機関だった。時々集まったが、幸いその会議を招集するような誘拐事件は岩手県では発生しなかった。地元紙の編集局長は風格のある人物だった。日本経済新聞の支局長はスクラップを作らないといっていた。ネットで検索できるからというのが、その理由だったが、信じられなかった。今なら当然のことなのだが……。

 このネットワークを利用したことがあった。県の南部の通信部の記者が逮捕される事件が起きたのである。彼はよく原稿を書く記者だった。テレビニュースでは原稿だけでは話にならない。映像が必要である。彼はカメラで映像を撮って、それを盛岡にある放送局に送る。原稿は後で電話で送ればよい。新幹線の通勤が可能なようにフイルムやビデオテープを夕方より前に盛岡に着くよう送ることが絶対必要だった。そこで、車掌渡しといって、通信部のある駅でホームまで行って車掌に渡し、盛岡駅でその車掌から受け取る方法を取っていた。通信部記者は車掌に渡すべくフイルムかテープを駅に運ぶ途中、老婦人と通信部車が接触したのに、「大丈夫ですか」と尋ねた程度で、記者の責務を優先し駅に向かってしまった。

帰りに警察官に捕まり、悪質なひき逃げということで逮捕されてしまったのである。その事実を警察から電話で受けた際、吾輩は思わず、「えっ、身柄を取ったのですか?「大声で叫んでしまった。放送部中が聞き耳を立てたのは言うまでもない。身元がハッキリしていることから、夜までに釈放され、任意で調べられる事になったが、警察というのは記者にとって、半分仲間内のようなものであり、記者が逮捕されるなどいう事態は考えられない事だったのである。また、報道機関にとっても大変な恥だった。なにしろ交通安全を呼びかける立場の報道機関なのに自分でひき逃げ事件を起こしたりして、一体どうなんているんだよ!というわけである。

 そこで、局長の指示で、各社を回り記事にしないよう頼んで回った。若い記者は競争相手の他社に頼みに行くなんて、記者道の倫理にもとると吾輩に軽蔑のまなざしを向けた。また、県警本部長を訪ねてなるべく軽い処分にして欲しいと頼んだ。法律的な手続きの一つとして行政的な処分を行う前の聴聞では、本人の将来の為、免許の永久の取消にしないよう必死で訴えた。法学部に行ったといっても法律は苦手で司法試験を受けようかなんて一瞬でも思ったことのない吾輩だったが、あらゆる知恵を絞って弁護に務めたのである。

 彼はしばらく休職という事になったが、家族は若い奥さんと幼児がおり、万一自殺でもしたら大変だということになった。そこで、ニュース班のメンバーが代わる代わる通信部に泊まることになった。一番多く行ったのは吾輩だった。若い奥さんがたいそう恐縮して、豪華なすき焼きとおいしい日本酒で毎晩もてなしてくれた。酒に弱い上、お酌も断りにくい吾輩は、おいしい牛肉をたらふく平らげ、すっかり酔って寝込んしまい、何のための泊まり込みか分からない状態だった。翌朝八時頃目が覚めたら彼が居ない。通信部は東北線の在来線の線路に近く踏切がある。うーカンカンカンと列車の近づいてくる音がドップラー効果でだんだん高く鳴ってくる。あーどうしよう!!と脇の下から冷や汗が出てくる。そのとき、ガラガラと玄関の開く音がして、

「ただいま!」と彼が帰ってきた。子どもを連れて、散歩に行ってきたというのだった。病院に被害者を訪ねて、精一杯お詫びの言葉を述べたりもしたが、事態の収拾に翻弄され、ストレスから極端な便秘になってしまった。トイレに行っても出そうで出ない。スペインを旅行したときも便秘になったが、このときは温州ミカンのようなセミノールという柑橘類で克服した。しかし、このときはひと月かひと月半、糞詰まりの状態が続いた。結局、彼は懲戒免職や諭旨免職になることはなく、転勤して記者職から外された。ところが、その職種で大変な成績を挙げた

そうである。独特の押しの強さが幸いしたものと思われる。彼がやめずに済んだことが、大変にうれしく、自分はどうなってもいいやと思った。

 もう一人、盛岡局の通信部の名物記者がいた。その当時、津波が最大の関心事だった。彼はチリ地震津波のさい、電信柱に上って助かったという経験者だったような気がする。夏休みのシーズンに東大や東北大の学者が明治や昭和の三陸大津波の痕跡の調査に来ると。車を提供して一緒にリアス式海岸の沿岸の調査に同行し、Ⅰ日勤務にして調査の内容を原稿にして映像とともに送ってくるのだった。彼は高卒だったが、化石にも詳しかった。やはり学者の現地駐在部外協力員のような立場だった。彼は盛岡局に出張で来るとよく管理職用舎宅の我が家に泊まった。人なつっこい人でユニークな存在だった。生きている内に大津波が来るまいと吾輩は思っていたが、彼の最大のテーマだった大津波を経験して何を思ったのかを訊いて見たかった。数年前に、彼が亡くなったと奥さんから年賀欠礼はがきが来た。彼の家は大船渡にあったのだが、奥さんの住所は盛岡だった。いくら大津波でも盛岡まで到達する海嘯はない。

 他の局ではなかったが、盛岡では同郷の職員がいた。福島出身で福島高校を卒業したHと茂庭生まれで従弟の小泉健一君と同じ飯坂高校を卒業したSである。Hはカメラマンでリポートも巧みだった。フイルム編集の経験もあったかもしれない。宮古あたりに伝わるまつりの伝統芸能の踊りを酔っ払って行うのをとってもユーモラスに活写した。得がたい人物だった。単身時代彼の内に招かれて夕飯をご馳走になった。風呂に入れと言われてバスタオルで身体をふきながら廊下に出たら奥さんと鉢合わせになった。裸が真正面から見られてしまった。

 Sは盛岡で結婚式をした。彼はちょっとだけ別の人と結婚していた時期もあった。故郷の先輩で、一応上司でもあることから仲人をしてくれと頼まれ、引き受けた。前任地の津では名古屋局当時から知り合いだったニュース班の職員の仲人は断ったのに。お嫁さんは一関の人で、その家に招かれご馳走を出された。勧められるままにお酒を飲んだら、すっかり酔ってしまい、新幹線のホームから落ちそうなくらいふらふらしているのが分かった。

ホームには落ちなかったが、強烈な吐き気を催し。洗面コーナーの手洗いのボウル場の部分に吐いた。吐瀉物はボウルの七分目か八分目迠達した。自分でも吃驚した。幸い他の乗客や車掌は来なかった。

 sの家に通信部出身の記者やカメラマンのHとよく集まった。新婚の奥さんが接待してくれたのだが,ある夜帰るときに玄関で一人の男が『HOW MUCH1と言った。スナックに居たと勘違いしたのか、わざと言ったのか。Sの結婚式の時には通信部出身の記者の一人が『君といつまでも』を歌い、最年少でSの職種の後輩のてっちゃんが『赤いスイートピー』を歌った。とても上手だった。Sだかてっちゃんだか忘れたが、夕方のローカルニュースで、ある春の日にアナウンサーの原稿なしで,春の風景の映像を流しながら、キャンディースの『もうすぐ春ですヨ』を聞かせてしまうビデオ編集の職員だけに歌はうまかった。

 後半の2年間は放送部長だった。『NHKのど自慢』の審査委員長になる。東北6県に年に5回程度の自慢がやってくるので、来ない年もあってもおかしくない。それなのに、二年続いて来て、しかも六月から六月までの二年間に三回経験した。ゲストは島倉千代子と吉幾三でもう一人は忘れた。また、FMリクエストアワーかなんかの公開収録もあり、大船渡だったか陸前高田だったかに行った。生稲晃子がゲストだった。

 大船渡でののど自慢,真夏で予定した以上に観客を入れたわけではないのに、人いきれで会場の体育館の壁が汗をかいた。何かあって出口に観客が殺到したら身体を張って人の流れを食い止めようと自分に言い聞かせたが、大地震が起きることもなく杞憂だった。

のど自慢は審査委員長と言っても形だけで,専門家の東京のディレクターがカネの数を決める。ただ、時々ディレクターが、「部長、二つか三つか、どちらにしましょうか?」と訊いてくれるのである。「そういうときは、『三つをお願いします』というのですよ」とコーチを受けており、振り付け通りにした。そのころの司会者は同期の吉川精一で,彼はカラオケの歌は玄人はだしだった。たしか、アナをやめた後歌手デビューした。その頃は、本番の出場者を選ぶのに,抽選で予選会の出場者を決め,予選会の出場者にちょっとずつ歌わせて選ぶのだが、本番に出る二五組を発表するのが放送部長の役割で,このときが一番楽しかった。演歌はあまり詳しくないので,北島三郎の『北の漁場』を「きたのぎょじょう」と言って会場が爆笑した。ニュースでは、そんな訓読みはしないもの。

 岩泉という香川県くらいの広さの町がある。『南部牛追い唄』の全国コンクールが開かれており,放送部長が審査員を委嘱された。民謡に詳しい小島美子さんとういう方が東京から来ていて,同じホテルに投宿したので夕食は同じ部屋で食べた。本女、東大、芸大と三つの大学を卒業した人で,民放の民謡コンクールの審査員もして有名だった。育ったのは福島で父親は中尾外科医院を開業していたという。母親や妻と同じ福島女学校の出身だというので話が弾んだ。

 4年居て,局長は三人と付き合ったが、一人は威張り腐っていて迷惑した。あるとき,酒を飲んでいたのか放送部に来て、慶応と東大出身の若い記者を見て「文学部か!」と言った。言われた方では何で馬鹿にされているか、さっぱり分からない。怪訝な顔をしていた。吾輩が思うには、彼は吾輩と同じ東京大学法学部政治コースの出身だった。文学部は情緒的である。法学部の卒業生はイエ―リンクの“権利の上に眠るもの”という言葉があるように、自分の権利は堂々と主張し、自分の持っているリソース(資源)はフルに活用して、競争相手と熾烈な闘いを展開していくのがあるべき姿と思っていたのではないだろうか。そこまで行かなくとも、人間関係を多角的に冷静に分析して眺めるというようなことが文学部卒業生にはできないと思っていたのだろう。文学部だって社会科学的視点の分野だってあるし、社内で権力闘争に励むのは、新聞記者の大半は文学部出身であり、文学部出身かどうかとは、たいした問題ではない。むしろ権力志向の強い彼の方が特異な存在である。それにしても、彼は吾輩の淡泊さを歯がゆく感じただろう。政治コースの後輩なのになぁと。

 局長の一人は技術出身で何も覚えて居ない。もう一人は報道局の編集センター出身の人で、カラオケでは一曲しか歌えなかった。裕次郎の『恋の町札幌』。彼は北海道出身だった。

 

 

解説委員室

1999年6月盛岡放送局から報道局に転勤。解説番組の送出に当たるチーフディレクターだった。チーフディレクターでなく、チーフプロデューサーでなければ、出世の可能性はなかった。解説委員室は解説委員が番組のプロデューサー的な存在であり、番組の内容を決める権限を持っていた。解説委員室のディレクターは解説委員の小使いのようなもので、解説委員が構成を決めて、原稿を書くと、それに必要な映像、静止画、テロップ、パターン(民放で言うフリップ)を準備する。本番では副調整室で技術職員に指示して番組を送出する。全責任は解説委員にあるのだから、楽な職場だった。朝のニュースの解説の担当になると、出演者と同じように、KM(国際自動車)のハイヤーが迎えに来た。寮は西荻舎宅といって専務理事時代の川口さんが住んでいたこともある。なんでも、昔は有名な歌舞伎役者の別荘だった所に建った建物だったという。庭にはミョウガが生えていた。木も多く野鳥が来た。JR中央線の西荻窪駅から1112分のところで、いつもは、中央総武線で新宿まで行き、ホームの反対側の山手線に乗り換えて原宿でおり、東京オリンピックの会場になった体育館を見ながら放送センターに通った。時々,代々木で降りて明治神宮の中の道を通った。早朝ハイヤーで行くと、10分くらいで着いた。

 共済会提供の寮で最後になった西荻舎宅は、大学生2人が居たので4Kという間取りだった。子ども2人が個室を使った。上の子が志望した会社は会社まで公共交通機関で一時間以内で通えるのが条件、子ども孝行ができた。下の子は広いリビングで教養課程(日吉)の時は、ESSのディベートサークルで討論内容の検討、専門課程(三田)では公共政策のゼミのレポートなどの検討、深夜ま7~8人が集まってきて熱心に議論していた。徹夜することもあった。これも唯一の子ども孝行だった。NHKの舎宅のおかげだった。

 仕事は、解説委員会という会議に出るのと,担当した番組で解説委員の要望に応える補助的作業をすること。パターンを頼むのは初めてで,要領をつかむのに苦労をした。また、ナマでない収録の番組は、番組制作局のディレクター流にやる必要があり、これも大変だった。その場しのぎのニュースの送出に比べ、番組制作局の番組は準備の時間のたっぷりあり、事前にきっちり計画して細かく台本を書いておくのである。『視点』というコラム番組はそうだった。技術現業部の職人のような人が多く、角刈りの男性は“コラムの帝王”と呼ばれていた。時々、「笑いましょう」と言った。カメラを操作することで画面からある人物を消すことを言うらしかった。そのほか、いくつかテクニカルタームがあったが、「笑う」しか覚えていない。「みきれる」とか、「ばみる」というのもあったかもしれない。『視点』の主演者は、部外者に出て貰うことが多く、高階秀爾さんの家にも打ち合わせに行ったような気がする。

 政治部の先輩の番組では国会に行って小沢一郎のインタビューをするのを見ていたこともある。すごく言葉の遅い人で、他人の2倍くらいゆっくりと話した。頭の悪い人で司法試験に受からなかったのも当然だなと感じた。まあ、当方は司法試験を受ける準備もできなかったくらいで、どっこいどっこいなのだが。

 災害担当の解説委員が何泊かの出張をしたのにも付き合った。カメラマンやライトマンも連れて行くが、誰かと懇談したことにして,経費を捻出する才覚を働かせ、宿で豪華な食事をするように手配するのが実際の役目だった。だから、せっせと領収書を集めた。ある本職のディレクターは、現金より大切な出張時の領収証といっていたくらいである。

 その出張は静岡県の伊東と岐阜県の高山に行くもので、担当した社会部記者OBの解説委員は、その後岐阜県御嵩町の町長に当選した。しかし、ゴミ処理場の問題か何かで暴漢に襲われて大けがをした。

 そのとき解説委員室には女子アナ出身の大物がいた。あるとき、女性の強姦のことを話さざるをえない場面に遭遇した。当時のNHKでは「強姦」という刑法百七十七条に書かれた二文字は放送禁止用語だった。語感が強すぎるというのである。だから暴行とか乱暴と言い換えていた。人にけがをさせると傷害罪、けがをしない程度に殴ったり蹴ったりすれば暴行罪なのだが、その程度にしか評価されなかったのである。しかし、当事者にとっては死にも等しい屈辱であり、ことの重大性を矮小化するもので許せないという主張が当時からあったのである。そこで、元女子アナは悩みに悩み,泣きそうな顔をしていた。そこで吾輩は言った「じゃあ、レイプと言ったら」。彼女が放送で,そのテーマに触れたか、実際にどういう用語を使ったかは,覚えて居ない。吾輩の担当した番組ではなかった。その後、考査室勤務の時、用語について横浜局報道の女性から問い合わせがあった。「『クローズアップ現代』に出演を依頼している人が“『強姦』と言う言葉が使えないなら番組に出ない”と言っているのですが、使っていいでしょうか」と言う。「まず、デスクに訊いて見たら」と言ったら、むっとして「私もデスクです」と言う。社会部で警視庁を持ったことがあり、その後デスクになった女性だった。わたしは、部落という言葉だって,文脈の中で正当性があり、必要不可欠であれば,使うべきだと思って居るくらいで、「構わない」と答えた。その日の『クローズアップ現代』見たら、なんと

35回も強姦を連発した。ちょっとやり過ぎだと思ったが、「誰がOKを出したのか」と訊かれることはなかった。考査室に問い合わせがあったことも話していない。独断即決が吾輩の信条である。戦場の将校のような気分で振る舞っていたのだ。フラワーデモ等が行われる昨今の風潮を考えると,時代を先取りした扱いだった。

 元番組制作局のディレクターで解説委員になった女性も居た。あるとき、彼女がラジオの番組で松川洋右というアナウンサーと対談していた際、千葉敦子だったかの事を話していて、ホスピスのことを話したという。アナウンサーは,最初にホステスのことを言っていると思い込んで出演者の解説委員と対談していたが、そのうち(多分乳がんの闘病のはなしではないだろうか)ふっとホステスのことではないと気がついた。そして、プッと吹き出しそうになり、あわてて机の下に潜って口を押さえていたという。仕方がないので,彼女は聞き手不在のまま、延々一人でしゃべる羽目になり大変に困ったとのことである。彼女自身もがんで早く亡くなった。夫君は有名な建築家。彼女は福島放送局長や番組制作局長をへてNHK初の女性理事になった(強姦問題の元女子アナはNHK副会長になっている)。彼女が番組制作局長の際、女性戦犯法廷の問題が起きた。NHKの放送に取って取り返しの付かない干渉が行われた。この番組を採択してはいけなかった。結果論から言うのは、卑怯だし、番制局OBの心情は別なのかもしれない。結局,報道局政治部出身者によって改変は行われた。安倍晋三や中川一郎の息子ら自民党への過度の忖度によって。

 解説委員には、経済部出身の大山という人が居た。これからの日本は3K職場の介護の担い手としてフィリピンなどから人を入れなくてはダメだと盛んに言っていた。

 解説委員室のレクレーションは栃木の隠里的温泉に行った。加仁湯といったと思う。平山健太郎という先輩と朝早く起きて鬼怒沼へ行こうと約束した。翌朝、二人だけで鬼怒沼に登山した。尾瀬沼や燧岳が見えた。彼は喉が渇いたらしく沼の水を飲んだ。帰りは下り坂だったので飛ぶようにして帰った。30分くらいで下山した。でも、一行はプリプリ怒って先に出発していた。ボクはかろうじて宿の朝ご飯を食べた。彼は沼の水で下痢に悩まされていたのではないか、かなり遅れて帰ってきた。7~8年先輩なので遠慮して、「下痢をしているのか」とは訊けなかった。それから、帰途についた。事前に配られていた予定表を見て,旅程を忠実に追っていたら,どこかの施設を見学していた仲間に追いついた。いたずら小僧二人に一行は厳しく、口をきいてもらえなかった。血は水より濃しー東京大学法学部政治コース出身の二人である。彼は栃木県出身で、その後白鴎大学の先生もした。また、吾輩が西荻区民センターの運協の講座運営部長になって,講師捜しに困ったときは,彼を招いて中東問題で講演して貰った。大好評だった。

 解説委員の侍女役のような解説委員室ディレクターの仕事がイヤになり,世論調査部に異動を希望した。それが認められて,解説委員室勤務は一年で終わった。送別会の際、新しくアナウンサーから解説委員になった小宮山洋子も出席した。「私はお父さんに可を食らったので,貴女と一緒に仕事をしなくてよかった」と言った。旧姓加藤、加藤一郎教授のお嬢さんなのだ。ぽかんとしていた。彼女は,その後民主党の国会議員にかつがれ、厚生大臣も務めた。また、その後離婚したが、小宮山君はその後行った考査室の次長をしていて、「年にゴルフに200万は使う」と豪語していた。アナウンサー当時偉い人間だと思ったのかもしれないが、「なんでこんな奴と結婚したのかね」と言ってやりたいと思った。

 

世論調査部・編成局世論調査

 学生時代、朝日新聞の入社試験を受ける場合、社風を知っておいた方がよいと、世論調査のアルバイトをした。本郷では、政治社会学とか文学部の社会学の授業に興味があったこともあり、報道局開設委員室の異動の希望についての面接で世論調査部を希望したら、通った。選挙の世論調査は政治部にとっても一つの大きな武器であり、政治部にとっても連絡役として役に立つと考えるだろうと思った。

NHKの世論調査のセクションは放送文化研究所の中にあった。放送研究部とか放送事情調査部とともに世論調査部があった。職場は,渋谷の放送センターでなく、愛宕山の放送博物館の建物にあった。地下鉄銀座線の虎ノ門で降りて、てくてく横から山を登って通った。東側は間垣平九郎が馬で上ったという男坂だった。

 最初は研修だった。高校で一般数学をやっていないので,標準偏差という概念がどういう意味があるのか、どうしても分からなかった。また、日本人の性格からして、心裡留保というか本音と建て前の乖離というか,本心を世論調査で明かすとは限らないので,世論調査の結果にはマツツバの場合もあるはずだという思いが拭えなかった。

 実習ということで、実際の世論調査の調査員をやらされた。世論調査部員になるための踏み絵のようなものだった。担務変更で世論調査部に来る職員には苦痛のようなものだったと思う。自分は行かなかったが、退職後のアルバイトでNHK出版協会で働く場合は,校正の記号の講習があったのだろう。それと同じようなものだが、他人の家に飛び込むのだから大変だ。こちらは学生時代に経験していた。2回やらされたが、調布あたりの玉川の左岸で,2回目は表でじっとしているのに耐えられず、マイカーで行って、車の中で休憩した。今なら、コンビニに入って珈琲を飲んだりして休憩もできたのだ。

 

考査室

 世論調査の仕事もイヤになって考査室を希望した。選挙の度に神経をすり減らすとともに空しくなるだけだった。政治部の婢のような立場も政治部に戻れない以上,続けて居ても意味がなかった。上の方は政権の婢のような振る舞いだったし。どうせ、世論調査の結果をご注進ご注進といって歓心を買うだけだったのだろう。

NHKの放送文化研究所のやっている仕事では「国民生活時間調査」のような政治とは関係のない分野の仕事は意味があるが,政治意識については本音を言わない日本人の特性からどんなに回答選択肢を工夫しても、得られる回答にはバイアスがあり、科学的に見て意味のあることとは思えなかった。

 考査室というのは,新聞で言えば記事審査室で,社内のオンブズマンのようなものだった。また国内放送番組基準という憲法のようなものがあって,放送はそれに則って行うものとされて居た。恥ずかしながら現役の時は,番組基準などを意識して原稿を書いたりしたことは一度もない。入社したときは,座学で聴いたのかもしれないが、そんなものをいちいち考えていたら競争には勝てない。そんなものは、自然法のように報道人の心の中にちゃんと収まっているものなのだ。

 考査室では報道班に属し、ニュースとニュース番組について考査するのが業務だった。仲間内だから、よくやったと褒めるのがほとんどだった。毎週考査週報というのを発行し,報道部門を報道班で記述した。公式の部分はつまらないので、サイド的というか『その他』というコーナーに「気になった」ことを書いた。まぁ、あら探しのようなもので、受け取った放送現場では、此処だけ注目しているという向きもあった。もちろん、放送倫理上での大問題というわけではないのだが、ちょっとしたチョンボでも考査室は見逃さないぞ!というメッセージだったのかもしれない。それを書きたくて番組を真剣に見たという部分もあった。選挙があったときは開票速報番組につて考査するのだが、当確の打ち出しで他社に負けなかったかも調べた。他社の番組のVTRを見て人数をグラフ化したりした。

 ほかの職員は草臥れた人が多かった。PDでノイローゼになり、担務変更で来て定年までひたすら職員の座にしがみつく人も居た。こうした落伍者を救済し、抱えておけるのだから、大企業は素晴らしい。

 番組基準の改定のため精力的に取り組むという名目で伊東温泉に泊まりがけで行ったこともある。あまり仕事の話しは出なかった。その分、親睦は深まったが。

 職場のレクレーションでは、伊豆大島や伊豆の宇佐美に行った。総務班の女性がヒバリの『悲しい酒』を歌っているうち、自分の失恋を思い出したのか、本当に泣き出したのには吃驚した。彼女は左ハンドルのベンツの中古で通勤していて、何故か社内に駐車できてしまうのだった。吾輩も、60を過ぎて嘱託時代左足のアキレス腱を切って、車で通っていたことがある。西側の駐車場に身障者用のスペースがあった。

 考査すると行っても、まあまあなあなあというのが基本的なスタンスであって、問題は起きなかった。人権問題と広告宣伝放送というのが主なテーマのだが、私は放送基準を憲法というなら、“健全な民主主義の発展に資する”という点で放送の内容を評価すべきだと考えていた。

 政治部OBを会長にしたのは、彼らがジャーナリックなセンスがあり、会長にふさわしかったからではない。自民党にコネがあって、NHKのアキレス腱の受信料制度にケチを付けられないで済むだろうと考えた結果だったと思う。そういう組織にジャーナリズムを期待しても無駄であり、健全な民主主義の発展に興味を持つ職員などは見当たらなかった。

  こうして1999年11月に60歳の誕生月を迎え退職した。そのあと、しばらく嘱託として考査室に通った。

  報道機関の組織としては新聞協会というものがあるが、マスコミ倫理懇談会というものもあり、NHKを代表して委員になった。マスコミ倫懇の全国大会というのもあり、毎年出張した。記者クラブのクラブ総会の延長のような感じだった。松江に行った事もあった。旅館でまあまあのご馳走を食べた。

 嫌な役割を負わされたこともあった。岡村喬生というバスの歌手がFMで年末恒例の第九について話した際「屠所に引かれる羊のような気持ちだ」と発言した。屠所というのは放送禁止用語だった。屠場で働く組合がNHKに対して差別意識があると厳重に抗議してきた。音楽番組部の担当のCPと庶務担のCPが対応することになったが、放送倫理担当の考査室からも管理職に行ってもらおうということになり、人身御供の一員にさせられた。生麦事件の現場近くの屠場に何回か通ってつるし上げにあった。

そうした自分を俯瞰的客観的に見ることで耐えた。あるとき。こうした屠殺について考えることがあるかと聞かれ、「以前父親が高血圧の治療によいと信じて屠場から豚のレバーをもらってきて煮ていた。そのとき殺される豚のギャーギャーという悲鳴を思い出す」と迎合するつもりで行ったら、「それこそ、差別意識の塊だ」と一斉にわめきだしたので吃驚した。

 何回か通ったら、我々の教育で、君たちの意識も大分変わってきたとのご託宣があり、屠場の屠殺の有様を見学させてくれた。そして和解の印は沢山の牛肉を煮たものをご馳走してくれた。ちっとも美味しくなかった。いい部位を使っているのに。しばらく経って、二人のCPは恵比寿の『牛角』に招待してくれた。高級な焼き肉を腹一杯食べた。これが“恐怖の報酬”だった。その後も、展覧会の切符などを何回ももらった。部落差別という意味では、津に居たとき、営業の職員が部落出身の女性と恋仲になって周囲に反対されたためか出奔してしまったり、敬和公民館があって同和地区の場所だと知ったりしたが、部落問題にはとくに関わることが幸運にもなかった。NHK最後の職場で深く関わってしまった。でも美味しい焼き肉で、すっぱりと忘れることにした。

 

定年後

 2~3年考査室で嘱託をした。週に3~4日神谷町の木の葉っぱのような森ビルに通った。仕事は今までと同じだった。向こうから言われたのか、こちらから言い出したのか忘れたが、すっぱり辞めてしまった。

テニス

 テニスを始めたのは、小金井に居たときだった。寮に木村紀正という報番のPDがいて、久我山のNHKグラウンドに連れて行ってくれた。しかし、ちっともうまく打てず、悩んでいたら転勤になった。金沢で北陸線の線路の近くにコートがあって、スクールに2シーズン通った。少しフォアは打てるようになった。兼六園コートで始業前にやったが、雨にたたられることが多かった。和田郁夫や小納谷雅明君がメンバーだった。

  名古屋では志段見コートに通った。寮が同じでコメントの先輩の高橋さんと一緒に行くこともあった。こちらが車を出したときでも、どの道を通るかで口を出すので、口げんかになった。社会部の上田君、カメラマンの堅野さん、運転手の吉川さん、農水系の霞堂さん、アナウンサーの中林速雄さん。

 津ではグリーンテニスクラブの会員になった。高橋君らと公営のコートでプレイした。

 盛岡では鈴木卓ちゃん達とプレイした。餞別にタッキーニのウエアをくれた。

東京では、久我山のコートに通った。

編成世論に居たときは、そのメンバーと久我山でプレイしたし、レクレーションも一緒に行った。

定年後は、もっぱら七番コートに行った。六番コートが軟式に使うことがあり、七番コートは離れ小島のようになっていた。報道と報番のメンバーが集まった。当時『スタジオパークからこんにちは』と言う番組があり、そこに出演していた関口智宏というタレントが早く行って場所と取ってしまい、ゆうゆうと番組のアナウンサーの堀尾正明が来るという場面に何回か出っくわした。こちらはコートに近いところに住んでいたが、とてつもなく早く来るので負けてしまう。堀尾君とこのタレントがテレビに出ているのを見ると、今でも腹が立つ。

この連中とは、よく合宿に行った。山梨や伊豆だった。箱根にも行った。

強羅だか大涌谷だかに行ってホテルに泊まった。白ワインが甘くて美味しかったので、飲み過ぎてすっかり酔っ払った。ツインの部屋で後輩の記者と同室だったが、トイレが外にあると勘違いして出たらオートロックで入れなくなった。そのうちゲーゲー吐いた。帰りのバスの切符があったが、吐くと行けないので、マイカーに乗せてもらった。宮前平あたりで降りて電車で帰ってきた。散々な目に遭った。

 同室の後輩の記者は、「いびきがひどくて眠れなかった。ぐぅーといった後、長い秒数息が止まり、急に大きな音で又ぐぅーと来る。試しに息を止めてみたが、苦しくて続かなかった」というのである。そのとき、吾輩は睡眠時無呼吸低呼吸症候群という用語を殆ど知らなかった。列車の運転手の事故の際に言われるのはきいたことがあったはずだ。

 東京に帰って近くの荻窪病院に行った。一晩器械を付けて入院し、結果を聞いたら、立派な症候群だと言った。それ以来C-PAPを付けて寝ている。寝ているときにのどちんこが気道を塞ぐために肺に空気が行かなくなって血中の酸素濃度が低下し、高血圧や動脈硬化、脳梗塞の原因になるという。ずっと隣で寝てきた人は、いびきだけを考えたらとっくに離婚していたと言った。我慢強いのも善し悪しである。

 職員の不祥事をきっかけに富士見ヶ丘のNHKグラウンドが使えなくなった。一時会員になろうかと思った青梅街道沿いのテニスクラブの北側にもう一つテニスクラブがあった。たまたま会員が400人を切っていて入会金半額のキャンペーンをやっていた。そこで平日会員として入会した。

 驚いたことに中里夫婦が入っていたクラブが此処だった。また、NHKグラウンドが使えなくなって流れてきたのが技術の赤羽根、小岩か新小岩の加藤、埼玉の方の鈴木さん。アナから自然番組のPDに担変して解説委員になった藤原君の姿もあった。最初はなかなか近づける人がなく三丁目の中村さんを紹介してもらった。そのうち、小池さん夫婦と知り合い、湯浅さん、浅沼さんと居合わせばゲームをできる男女が増えていった。けっこうこだわりの強いメンバーも居て、天敵のような存在があった。当方も、勝負にこだわる佐野と死んだ女と接しているような無反応の橘高とはやらないと決めていた。 いつも三時頃歩いてくる佐藤さんや今川図書館の近くの千賀さんともゲームをした。千賀さんは本橋さんと井草高校での同級生で、本橋さんと知り合った。木内、池宮、阿部ゆき子、広瀬の4人組ともよくやった。

 しかし、テニスをした日の夜、脊髄硬膜外血腫で手足が動かなくなり、4週間入院したので、会員権をキャンセルし、関町ローンテニスクラブを退会した。

 それから、ヤメ検ではないが、関町のクラブを辞めてまだテニスをしたいというメンバーで杉並区の区営のコートを利用するグループを作りテニスを続けた。メンバーは5名だが、一人女性が加わってくれている。

 NHKの運動場以外でもテニスのグループに参加した。パソコン通信のサイトで知り合い、京葉線の電車に乗って千葉の近くまで行ったこともある。世田谷の簡保のコートにも行った。

  また、高井戸駅の南のダイヤモンドテニスクラブのドーム型のインドアのテニススクールに通ったこともある。そこで、田寺さんと知り合い、郵政コートや柏宮のコートを申し込み抽選で当たったときだけプレイするグループに参加した。天沼の内田の家の2本北の道に住む田寺さん、遠近さん、蘇理さん、佐藤さん、世田谷の人たち、府中だか調布だかの男性。あるとき『夜警』の話をしたら、「あの人テニスなんかしているけど、住宅ローンの支払いかなんかで、夜はガードマンのバイトをしているのかと思った」と話し合って居たとのこと。レンブラントを誰もが知っているわけではないことが分かった。田寺さんはそのご上井草テニス同好会のメンバーになった。めいの数学の問題の解き方を教えてもらったり、確率か数列か複数のメンバーのゲーム出場の公平な組み合わせの表をもらったりした。いつの間にか連絡が取れなくなった。『坊ちゃん』の母校の東京理科大学の出身で、都立高校の教師だった田寺さん。高校は双子の研究の実験材料として幡ヶ谷の東京大学附属高校に入ったが、大学は入れなかった。私の会った中では最も律儀な人だった。

 講座

 高校生の頃、内池君は文庫本で『平家物語』を読んでいた。当方は対抗して岩波文庫の『源氏物語』を購入したのだが、「いづれのおおんときにか女御更衣あまたさぶらいけるなかに」という部分から一向に進ます、源氏物語がなんだったのか文庫本からはつかめなかった。そのご、何種類か現代文訳を読み、陰々滅々としたお経みたいな面白くないフィクションだと思った。

 『平家物語』の講座があると杉並区報で知り、問い合わせたら区役所の窓口が、「老人クラブのメンバーでないと受講できない」といい、地元の老人クラブを初回してくれた。西荻窪駅に近い浜口さんという会長に家に行ってクラブに入れて下さいと頼んだ。彼はいいと言ったが、その後連絡がないので催促したら、会費を払えば入会できるということになり、西荻春秋会の会員になって、無事高井戸の高齢者活動支援センターの講座に月2回通った。講師は早稲田の国文科の出身で元都立高校教諭の西澤曻さん。ホワイトボードにマジックで書くのも板書の延長のようだった。前半は『平家』、後半はその時々で選んだ文学作品の断片の紹介だった。『平家』のあとは、誕生して千年ということで『源氏』も取り上げた。また、文学散歩で群馬に行って、赤城山の湖や朔太郎か文明の記念館を観た。

 彼に西荻の区民センターの運協の時講師を依頼し、その交通費のことで住所は小菅だが、京成の堀切菖蒲園の近くの家に行ったことがある。娘さんか息子さん一家と一緒のようだった。先生が高齢を理由に辞めることになった。高校以来長年にわたって立っていた教壇を去る際涙すると思って演出を考えた。ネットで『仰げば尊し』のメロディーを見つけて再生し、

受講生全員で歌った。先生は泣かなかった。そのころは、老人クラブ連合会の教養部長で、杉いき連大学の講座運営の責任者だったので好きなことができたのである。

 その後、講師は世田谷文学館友の会の平出洸さんに代わった。会長の井上さんが杉の樹カレッジで講演を聴いたかして白羽の矢を立てたらしい。

彼は、世田谷文学館友の会の幹部だったので知っていた。受講生に配る資料のプリントなどで事務の人との間に立って協力した。プリントの版下をメールに添付して送ってくるのを、受けられなかったりしたためである。また、平出先生は必ずカセットテープを再生したので、機器のセットやボタン押しを手伝った。

  あるとき、徳冨蘆花の記念館のようなものをみようと自転車で京王線の蘆花公園駅の方に行った。芦花公園の恒春園の前に世田谷文学館という施設があり、興味を覚えて入ってみた。そして、世田谷文学館友の会に入会した。友の会の講座にはかなり参加した 

平出洸さんは友の会の副会長だったが、東京大学法学部の出身で日立製作所に入った彼は祖父の平出修や検察官で探偵小説の翻訳をしたという父親と違って司法に道に進まず国文学の愛好者で、修が明星の同人で晶子や鉄幹の友人だったことから与謝野晶子や石川啄木の作品や人となりに詳しかった。晶子や啄木に関する全国的な組織の有力なメンバーもしていた。彼が『きみしにたもうことなかれ』の詩を解説したとき、「その晶子の弟は日露戦争で死んだのですか」ときいたら、「失礼しました。生きて帰って家業を継ぎました」と即答した。そのご、西荻地域区民センターで講座運営部長をしているとき、2~3回講師を依頼した。西澤先生にも『平家物語』の講座をお願いした。

京王線の芦花公園の近くにある世田谷文学館には何回も通った。会報を編集する委員になった。しかしメンバーの女性の生意気さが我慢できず、やめてしまった。その後また通うようになり、懲りずにまた編集の委員になった。ところが部長の女性が権威主義の人で会長をからかうようなことを行ったのが怪しからんと非難するので、腹が立ってまたまたやめた。文学散歩で鳩の街に行ったり、小田原に行って『斜陽』のことをきいたり、太宰の遺児の太田治子の講演を聴いたり、面白かった。

東京女子大は本女・日本女子大に比べてかっこよいように感じていた。学生時代三鷹寮にいたとき合ハイを誰かが申し込んで断られ、朝日の夕刊に「東大生袖にされる」と新聞記事になったところである。その東女が地域貢献の一つとして社会人講座として毎年企画したので、何回か参加した。キャンパスは自転車で10分ほどの所にあった。美術史の話は面白かった。レンブラントの『夜警』が美術史上エポックメイキングなものであることは初めて知った。

  朝日のカルチャーセンターにもいくつか通った。NHKの文化センターの講座に参加したことはない。社会部の先輩がNHKの報道の職員の定年後の働き口として開設したと偉そうに言っていたので癪に障ったから。

  新宿の教室にも行ったが、立川にも行った、フランス語で歌うシャンソン教室に何シーズンか通った。先生がカタカナで発音を表記してくれてそのコピーを見て歌う。吾輩はフランス語を読んで歌った。しかし、あるときそれに追われてメロディーがおろそかになり、シーンという冷たい空気が流れた。もともと異分子のような状態だったのだが、一挙にそれが露呈し、それを契機にすっぱりとやめた。朝日カルチャーセンターの人気講座には、なんか“牢名主”的な分子が潜んでいるのである。ワインの講座もそれで、やめてしまった。東大法学部の教授の丸山先生の話も深みの欠けるものだった。

テニス以外のスポーツ

  テニスでアキレス腱を切ったので、何かできないかと思ったら、区報でアーチェリーの会員を募集していた。上井草のスポーツセンターでできるので参加した。30万くらいのゆみを買い、矢はスチールで1本5000円くらい、的を外してコンクリートを打つとおシャカになるというわけで、金のかかるスポーツだった。上井草は弓道と一日交替の利用で30メートルしかない。

50メートルには練馬区の光が丘に行った。新宿区の大久保のあたりや世田谷区の三宿あたりにも行った。しかし、一向にうまくならず、生意気なことを言う若い先輩もいて、やめてしまった。

 ペタンクというのは南フランスあたりが発祥の地の老人でもできるスポーツである。フランスという所が気にいって始めた。妙正寺公園でラジオ体操の後にやっていた。早起きしていった。早起きがつらくなりやめたが、そのうち近くの原っぱ公園で老人クラブ千歳会のメンバーがやっているのを知って又始めた。司会、何ともこつがつかめず、限界を悟ってやめてしまった。

ゆうゆう荻窪東館

 敬老会館で、文化センタ-のような講座をしていた。大田黒公園のそばのゆうゆう荻窪東館では以前掲示板で、カミュの『異邦人』を原書で読むという講座の案内を見て吃驚したことがある。老人クラブでホームグラウンドだったゆうゆう西荻北館とは大違いである。そこで、サンテグの『人間の大地』をフランス語で読む講座に参加した。ついでにゆうゆう館の運営の委託を受けている「RISA」というNPOの会員になった。パソコンについて学ぶ「ITサロン」、「世界史を学び直すサロン」、「英語のニュース」にも参加した。しかし、第1火曜日午前の「読み聞かせ」のグループは、「只今新規会員の募集はしておりません」と表記されていれ、唯一門戸が閉ざされていた。そこで、何をやっているのだろうと好奇心がもくもくと湧いてきた。

  あるとき、りぷりんと・すぎなみの1期生でRISAの事務局長でもある小高久美子さんが「今日締め切りの『読み聞かせとウオーキングで認知症予防』の講座があるのだけど、保健所に問い合わせてみたら。ダメかもしれないけど」と言った。電話してみたら、定員には達していなかったし、男は珍しいというので、「テキスト代1,500円を払って貰えればOK」ですと二つ返事だった。3ヶ月の講座と1月になってからの3回の補完講座で、20199年4月にりぷりんと・すぎなみの会員になった。

 りぷりんとのインストラクターは、植田たい子さんと熊谷裕紀子さんとがトップである。我々の期は植田さんが講師だった、。彼女は私の顔を見ていった。「うれしい。男がいる。これは貴重よ。みんなこの人を逃がしちゃダメよ。」老人クラブも殆どが女性だった。会社勤めで草臥れた男達はやめて後でも、酒やゴルフは現役時代の仲間と行を共にする。ボランティアや老人クラブにはあまり参加しないものらしい。

  というわけで、吾輩は2022年3月の段階でりぷりんと・すぎなみの会員として、子どもたちに読み聞かせをしているのである。

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