盛岡放送局

 1995年6月盛岡放送局に転勤。ニュースの副部長だった。UHF局から普通の局への異動でちょっとは格上げだった。単身赴任で寂しかった。徳正荘というアパートで冬は氷点下15度くらいになった。父の国民休暇村の支配人仲間で照井さんという人が居た。雫石か宮古の休暇村の支配人だった。その人のものだった。父は私と違って、同僚の評判がよく、おかげでとてもよくして貰った。

車で出かけると、氷点下15度くらいのときはエンジンがかかって走っても15キロか20キロしかスピードが出なかった。いくらアクセルペダルを踏んでも。それより困ったのは、水道の凍結を防ぐため、水落しをしなくてはいけないことだった。金沢に行くときは、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われたが、盛岡では「酔っ払って帰っても、水落しは忘れるな」というのが親切な必須の忠告だった。水落しを忘れてしまうと、夜中に家の中を走っている水道管の中の水が凍ってしまい、水道が使えなくなる。水洗便所も一切利用できない。それだけでなく、春になるとポタポタと水が漏れ始め、下の階の家にも落ちて迷惑を掛けるというのである。これを防ぐには水道の栓を開けっぱなしにして勢いよく水を出しながら、家の外にある元栓を閉める。これによって家の中の水道管の中の水を抜かねばならぬ。それを氷点下15度でも外に出てやらなくてはならない。北海道が初任地のアナウンサーは現地採用(現地の人と結婚すること)が多いのだが、これは、独身だと家に帰った時、部屋が寒くて耐えられないからなのだと聞いた事がある。盛岡が初任地だったら、水落しをして貰うためだけに、盛岡メッチェンと結婚していたかもしれない。しかし、津に妻と高三と高一の子どもと妻を残して単身赴任だったので、単身でしばれる厳寒と孤独に耐えなくてはいけなかった。これが一番の問題で、家の中から元栓を閉めたり、水道管をあたたかく保つ装置を設置したりできればよかった。地球温暖化といっても陸奥(みちのく)は寒いのである。また、雪が降った後は道路から2030センチほどの雪が残り、車が通ると轍ができる。それが、なぜか、3本なのである。昔、年上の従兄が4人居た天沼の伯母の家には三本のレールで走る模型の電車があった。真ん中のレールは車両の下に付けたベロのような端子が接し、両側のレールの上を走る車輪をもう一つの端子にして電流を流しモーターを回す仕組みだった。HOゲージというのは両方のレールの車輪の間で電流を流す仕組みで、3本レールはその倍のレール幅だった。その三本レールの模型電車を思い出させるものだった。これは、両側から車が来たときには、どちらかが新たな轍を作る必要があり、厄介だった。

単身生活は、ご飯を作るだけでなく、片付けもしなくてはならず、本当に面倒だった。転勤が決まったとき、長女は高三、長男が高一で、長男は転校したくないと言った為、単身を選ばざるをえなかった。上の子に続いて下の子が東京の大学に入ったあとは妻が合流して単身生活におさらばできた。岩手大学のキャンパスの東の方にあった管理職用一軒家に引っ越した。この家は、北海道大学ほどではないが、相当広いキャンパスの岩手大学が近く、旧制岩手高等農林当時の校舎も残っており、何十年か前には賢治もここを歩いていたのかと思うと深い感慨を覚えたものである。また、盛岡の日比谷高校の盛岡一高も近くにあったが、こちらは啄木の通った所。

 盛岡市の中心部にはお城の跡も残っていた。「空に吸われし十五の心」と啄木が夢想したのは、どの辺だったかと歩きながら想像した。衣川に行って、強者どもの夢の跡で、何百年も前のことに思いを馳せることはなかった。吾輩は芭蕉とは違う。金沢に居たとき那谷寺に行っても冬の風が白いとは思えなかった。中尊寺も藤原三代の栄華も興味はなかった。むしろアテルイなど、中央の権力にまつろわぬものの方が共感できるような気がした。

 北上川は前九年の役、後三年の役の舞台だった。まつろわぬもの達の住んでいたところである。そういう意味では、奥州列藩同盟に加担したせいで明治以後ひどく冷遇された東北出身者でありながら、権力の中枢に上り詰めた原敬、齋藤實、米内光政、小磯国昭(山形)はたいしたものである。原敬の号は“一山”、いっせんと読むが白河以北一山百文という意味である。東北のブロック紙は河北新報。白河から北が東北。東条英機も祖先は南部藩のお抱え能楽師だった。

 盛岡に居た間によく行ったのは盛岡市内の大慈寺と原敬記念館、花巻の賢治記念館、玉山村の啄木記念館だった。大慈寺には、原敬墓と大きく彫った墓石があった。隣に同じ大きさの原淺墓という墓が並んでいた。パリのモンパルナスの墓地にあるサルトルとボーボワールの墓も全く同格の扱いだった。北上川の対岸の原敬記念館には、東京駅で刺されたときに来ていた血染めのYシャツが展示されていた。賢治記念館は童話だけでない多角的に活躍した賢治の人間像を表す展示物があった。啄木記念館では代用教員として啄木が弾いていたのか、古ぼけたオルガンがあり、音を出していた。

食べ物では、そば。大慈寺のすぐそばのしもたや風の店がおいしいような気がした。また、中心部に近いとこの『およねそば』にもよく行った。およねというのは

少女の名前で、年貢をまけて貰う為、自分の貞操を領主に捧げて村人に感謝されたと言い伝えられている。まるで、ヨーロッパの中世の領主の初夜権であるが、ボランティアと受け止められて居たのだろう。やませや冷夏で米のできの割ることが多かった奥州の貧しさを象徴する出来事でもあった。

そばと言えば、わんこそばというのもあった。盛岡に東屋という店があったが、花巻が発祥という話もあり、一関にもあった。花巻にもあったかもしれない。

 仕事は楽しいものではなかった。最初の二年は副部長デスク、後の二年は放送部長だった。報道責任者として桐花会という記者クラブのような各社との連絡会のメンバーになったが、これは誘拐事件が発生して警察が協定を結ぶよう報道機関に申し入れる際、受け皿になる機関だった。時々集まったが、幸いその会議を招集するような誘拐事件は岩手県では発生しなかった。地元紙の編集局長は風格のある人物だった。日本経済新聞の支局長はスクラップを作らないといっていた。ネットで検索できるからというのが、その理由だったが、信じられなかった。今なら当然のことなのだが……。

 このネットワークを利用したことがあった。県の南部の通信部の記者が逮捕される事件が起きたのである。彼はよく原稿を書く記者だった。テレビニュースでは原稿だけでは話にならない。映像が必要である。彼はカメラで映像を撮って、それを盛岡にある放送局に送る。原稿は後で電話で送ればよい。新幹線の通勤が可能なようにフイルムやビデオテープを夕方より前に盛岡に着くよう送ることが絶対必要だった。そこで、車掌渡しといって、通信部のある駅でホームまで行って車掌に渡し、盛岡駅でその車掌から受け取る方法を取っていた。通信部記者は車掌に渡すべくフイルムかテープを駅に運ぶ途中、老婦人と通信部車が接触したのに、「大丈夫ですか」と尋ねた程度で、記者の責務を優先し駅に向かってしまった。

帰りに警察官に捕まり、悪質なひき逃げということで逮捕されてしまったのである。その事実を警察から電話で受けた際、吾輩は思わず、「えっ、身柄を取ったのですか?」と大声で叫んでしまった。放送部中が聞き耳を立てたのは言うまでもない。身元がハッキリしていることから、夜までに釈放され、任意で調べられる事になったが、警察というのは記者にとって、半分仲間内のようなものであり、記者が逮捕されるなどいう事態は考えられない事だったのである。また、報道機関にとっても大変な恥だった。なにしろ交通安全を呼びかける立場の報道機関なのに自分でひき逃げ事件を起こしたりして、一体どうなんているんだよ!というわけである。

 そこで、局長の指示で、各社を回り記事にしないよう頼んで回った。若い記者は競争相手の他社に頼みに行くなんて、記者道の倫理にもとると吾輩に軽蔑のまなざしを向けた。また、県警本部長を訪ねてなるべく軽い処分にして欲しいと頼んだ。法律的な手続きの一つとして行政的な処分を行う前の聴聞では、本人の将来の為、免許の永久の取消にしないよう必死で訴えた。法学部を卒業したといっても法律は苦手で司法試験を受けようかなんて一瞬でも思ったことのない吾輩だったが、あらゆる知恵を絞って弁護に務めたものである。

 彼はしばらく休職という事になったが、家族は若い奥さんと幼児がおり、万一自殺でもしたら大変だということになった。そこで、ニュース班のメンバーが代わる代わる通信部に泊まることになった。一番多く行ったのは吾輩だった。若い奥さんがたいそう恐縮して、豪華なすき焼きとおいしい日本酒で毎晩もてなしてくれた。酒に弱い上、お酌も断りにくい吾輩は、おいしい牛肉をたらふく平らげ、すっかり酔って寝込んしまい、何のための泊まり込みか分からない状態だった。翌朝八時頃目が覚めたら彼が居ない。通信部は東北線の在来線の線路に近く踏切がある。うーカンカンカンと列車の近づいてくる音がドップラー効果でだんだん高く鳴ってくる。あーどうしよう!!と脇の下から冷や汗が出てくる。そのとき、ガラガラと玄関の開く音がして、「ただいま!」と彼が帰ってきた。子どもを連れて、散歩に行ってきたというのだった。病院に被害者を訪ねて、精一杯お詫びの言葉を述べたりもしたが、事態の収拾に翻弄され、ストレスから極端な便秘になってしまった。トイレに行っても出そうで出ない。スペインを旅行したときも便秘になったが、このときは温州ミカンのようなセミノールという柑橘類で克服した。しかし、このときはひと月かひと月半、糞詰まりの状態が続いた。結局、彼は懲戒免職や諭旨免職になることはなく、転勤して記者職から外された。ところが、その職種で大変な成績を挙げたそうである。人なっつい性格と、独特の押しの強さが幸い、団体契約をどんどん取った。彼がやめずに済んだことが、大変にうれしく、自分はどうなってもいいやと思った。

 もう一人、盛岡局の通信部の名物記者がいた。その当時、津波が最大の関心事だった。彼はチリ地震津波のさい、電信柱に上って助かったという経験者だったような気がする。夏休みのシーズンに東大や東北大の学者が明治や昭和の三陸大津波の痕跡の調査に来ると。車を提供して一緒にリアス式海岸の沿岸の調査に同行し、T日勤務にして調査の内容を原稿にして映像とともに送ってくるのだった。彼は高卒だったが、化石にも詳しかった。やはり学者の現地駐在部外協力員のような立場だった。彼は盛岡局に出張で来るとよく管理職用舎宅の我が家に泊まった。人なつっこい人でユニークな存在だった。生きている内に大津波が来るまいと吾輩は思っていたが、彼の最大のテーマだった大津波を経験して何を思ったのかを訊いて見たかった。数年前に、彼が亡くなったと奥さんから年賀欠礼はがきが来た。彼の家は大船渡にあったのだが、奥さんの住所は盛岡だった。いくら大津波でも盛岡まで到達する海嘯はない。

 他の局ではなかったが、盛岡では同郷の職員がいた。福島出身で福島高校を卒業したHと茂庭生まれで従弟の小泉健一君と同じ飯坂高校を卒業したSである。Hはカメラマンでリポートも巧みだった。フイルム編集の経験もあったかもしれない。宮古あたりに伝わるまつりの伝統芸能の踊りを酔っ払って行うのをとってもユーモラスに活写した。得がたい人物だった。単身時代彼の内に招かれて夕飯をご馳走になった。風呂に入れと言われてバスタオルで身体をふきながら廊下に出たら奥さんと鉢合わせになった。裸が真正面から見られてしまった。

 Sは盛岡で結婚式をした。彼はちょっとだけ別の人と結婚していた時期もあった。故郷の先輩で、一応上司でもあることから仲人をしてくれと頼まれ、引き受けた。前任地の津では名古屋局当時から知り合いだったニュース班の職員の仲人は断ったのに。お嫁さんは一関の人で、その家に招かれご馳走を出された。勧められるままにお酒を飲んだら、すっかり酔ってしまい、新幹線のホームから落ちそうなくらいふらふらしているのが分かった。

ホームには落ちなかったが、強烈な吐き気を催し。洗面コーナーの手洗いのボウル場の部分に吐いた。吐瀉物はボウルの七分目か八分目迠達した。自分でも吃驚した。幸い他の乗客や車掌は来なかった。

 Sの家に通信部出身の記者やカメラマンのHとよく集まった。新婚の奥さんが接待してくれたのだが,ある夜帰るときに玄関で一人の男が『HOW MUCH1と言った。スナックに居たと勘違いしたのか、わざと言ったのか。Sの結婚式の時には通信部出身の記者の一人が『君といつまでも』を歌い、最年少でSの職種の後輩の哲ちゃんが『赤いスイートピー』を歌った。とても上手だった。Sだか哲ちゃんだか忘れたが、ある春の日の夕方のローカルニュースで、春の風景の映像を流してアナウンサーの読む原稿の代わりに、キャンディースの『もうすぐ春ですヨ』を聞かせた。初任地の大分で政治部出身のデスクがローカルニュースのトップに夏の高校野球県大会決勝のニュースを持ってきた時と同様の衝撃を受けた。ニュース編集のセンスはゼロだった。ボクの前に道はない。ボクの後に道ができる。

 後半の二年間は放送部長だった。『NHKのど自慢』の審査委員長になる。東北6県に年に5回程度の自慢がやってくるので、来ない年もあってもおかしくない。それなのに、二年続いて来て、しかも六月から六月までの二年間に三回経験した。ゲストは島倉千代子と吉幾三でもう一人は忘れた。また、FMリクエストアワーかなんかの公開収録もあり、大船渡だったか陸前高田だったかに行った。生稲晃子がゲストだった。

 大船渡でののど自慢,真夏で予定した以上に観客を入れたわけではないのに、人いきれで会場の体育館の壁が汗をかいた。何かあって出口に観客が殺到したら身体を張って人の流れを食い止めようと自分に言い聞かせたが、大地震が起きることもなく杞憂だった。

のど自慢は審査委員長と言っても形だけで,専門家の東京のディレクターがカネの数を決める。ただ、時々ディレクターが、「部長、二つか三つか、どちらにしましょうか?」と訊いてくれるのである。「そういうときは、『三つをお願いします』というのですよ」とコーチを受けており、振り付け通りにした。そのころの司会者は同期の吉川精一で,彼はカラオケの歌は玄人はだしだった。たしか、アナをやめた後歌手デビューした。たいして売れなかったと思うが。その頃は、本番の出場者を選ぶのに,抽選で予選会の出場者を決め,予選会の出場者にちょっとずつ歌わせて選ぶのだが、本番に出る25組を発表するのが放送部長の役割で,このときが一番楽しかった。演歌はあまり詳しくないので,北島三郎の『北の漁場』を「きたのぎょじょう」と言って会場が爆笑した。ニュースでは、そんな重箱読みはしないもの。

 岩泉という香川県くらいの広さの町がある。『南部牛追い唄』の全国コンクールが開かれており,放送部長が審査員を委嘱された。民謡に詳しい小島美子さんとういう方が東京から来ていて,同じホテルに投宿したので夕食は同じ部屋で食べた。本女、東大、芸大と三つの大学を卒業した人で,民放の民謡コンクールの審査員もして有名だった。育ったのは福島で父親は中尾外科医院を開業していたという。母親や妻と同じ福島女学校の出身だというので話が弾んだ。

 4年居て,局長は三人と付き合ったが、一人は威張り腐っていて迷惑した。あるとき,酒を飲んでいたのか放送部に来て、慶応と東大出身の若い記者を見て「文学部か!」と言った。言われた方では何で馬鹿にされているか、さっぱり分からない。怪訝な顔をしていた。吾輩が思うには、彼は吾輩と同じ東京大学法学部政治コースの出身だった。文学部は情緒的である。法学部の卒業生はイエ―リンクの“権利の上に眠るもの”という言葉があるように、自分の権利は堂々と主張し、自分の持っているリソース(資源)はフルに活用して、競争相手と熾烈な闘いを展開していくのがあるべき姿と思っていたのではないだろうか。そこまで行かなくとも、人間関係を多角的に冷静に分析して眺めるというようなことが文学部卒業生にはできないと思っていたのだろう。文学部だって社会科学的視点の分野だってあるし、社内で権力闘争に励むのは、新聞記者の大半は文学部出身であり、文学部出身かどうかとは、たいした問題ではない。むしろ権力志向の強い彼の方が特異な存在である。それにしても、彼は吾輩の淡泊さを歯がゆく感じただろう。政治コースの後輩なのになぁと。

 局長の一人は技術出身で何も覚えて居ない。もう一人は報道局の編集センター出身の人で、カラオケでは一曲しか歌えなかった。裕次郎の『恋の町札幌』彼は北海道出身だった。

 法学部の先輩の局長は重要なことは全部自分で決済しないと気が済まなかった。制作班の副部長と一緒に午前8時頃彼のマンションを訪ねてドアのところで懸案を報告し、了解を得た。ボクの前任者の放送部長は番組制作局出身で彼からちょっちゅう嫌みを言われ、気の毒だった。東京へ転勤する日、新幹線の時刻を調べ見当を付けて盛岡駅のホームに行った。狙い通り彼が現れた。尾羽打ち枯らし悄然と去る姿をみてやろうという嫌みなボクだった。彼の推挙で放送部長に昇格した。その研修で東京に行っている間に副局長が失踪した、自殺したのではないかと高松の池あたりを局の職員が捜索して歩いたという。局長のイジメの所為だったのだろう。全国ニュースになってしまい、週刊誌の記者が取材に来た。いじめた本人が出るわけに行かないので広報局の指示で諸岡局ナンバー3の吾輩がインタビューに応じた。話す中味は局長に言われたような気がする。NHKの組織とは関係のない問題なので、お答えは差し控えるといった内容だったと思う。働き方改革やパワハラをなくすことが課題の今なら、通用しない言い訳だった。そんな回答が盛岡放送局八鍬龍義放送部長の談話として掲載された。

 県内のいろいろなところへ車で行った。1キロ50円で出張旅費も出た。うるさい局長に怒られて海が見たくなり、急に宮古まで行ったこともある。もちろん出張旅費は請求していない。又、彼は出世できない欲求不満から局に夜現れては怒鳴って歩いた。そういうときは、顔を合わせないため、日頃か使っていない第一スタジオの副調整室に電気を消してこもり息を潜めていた。

 盛岡に居たときに父の居る裏磐梯の国民休暇村に行った。盛岡でウニを買って持って行った。天沼の従兄達がおいしいおいしいと言って食べた。ボクの食べたウニでは礼文島で漁師が採っているのを渡してくれたものが一番うまかった。