NHK津放送局

 1981年6月管理職になって津放送局のニュースデスクになった。管理職といっても組合員管理職だった。津放送局は三重県をカバーしていたが、出している電波は、テレビはUHF、ラジオはFMのみだった。NHKテレビを見る場合、津から北の四日市、鈴鹿、桑名などは名古屋から放送されるVHFの3チャンネルも見えた。わざわざUHF31チャンネルを合わせなくともVHFのままで見られるので、津放送局から出す電波を見てくれる人は少ないのが実情だった。TBS系のCBC,フジテレビ系の東海テレビ、テレビ朝日系の名古屋テレビも見えるのでVHFのチャンネルしか見ない家庭が多かった。そこで名古屋から放送するニュースを含む地域番組は同じUHF局の岐阜と三重の県域の情報もバランスよく盛り込んで出すことになっていた。3年間名古屋局にいた吾輩なので、その辺の呼吸合わせることができた。津ニュースの取材・編集したニュースを見てもらうためには名古屋放送局に伝送して名古屋から放送してもらう必要があった。半人前の放送局だった。

 子供の教育の関係か、単身赴任の管理職が増えており、小さなUHF局で7〜8番目の序列だったと思うが、住まいは局長舎宅だった。局から歩いて2〜3分、放送局のすぐ近くにうなぎ屋があってウナギを焼く匂いが住んでいた局長舎宅にも漂ってきたような気がする。2階建ての広い家で、二人の子供は津高校(旧制津中学の後身)に進学したが、文化祭などで電車がなくなり帰宅できなくなった同級生が何十人も家に泊まったことがある。家の近くに朝日生命の支社長が住んでいてよく招待券をもらったりしたらしい。また、その家のお嬢さんのおかげで、娘はアメリカにホームステイに行き、それが英語を身につけるのに役に立ったと思う。そして、早慶上智の一角に現役で入れたのだ。

 最初の2年間は専門記者としての2番目の、後の2年間は副部長として1番目のニュースデスクだった。記者、カメラマン、ビデオ編集のメンバーの中心としてニュースを取材し、原稿やビデオ(早期はフイルムだった)編集し、技術職員の協力で、アナウンサーに原稿を読んで貰い、ブロードキャストするのである。

 普通の放送局には、放送部があってニュース班、制作班、アナウンス班、編成班があった。制作班は東京であれば番組制作局が作る番組を作る。ローカル番組、管中番組、全中番組である。ニュースは取材し放送するが、そのニュースバリューによってローカル、管中、全中となる。管中というのは、北海道、東北、関東甲信越、中部、関西、中国、四国、九州沖縄の各ブロックの範囲で共通のものを放送することである。

 規則の上では放送の編集権は経営陣のトップである会長にあることになっている。しかし、細かいことをいちいち会長に伺っている暇はない。だから、現実にはニュースはニュースデスク、番組はプロデューサーが責任を持って決定する。記者やディレクターが取材結果を基に書いた原稿やスクリプトをベテランの立場から見てチェックし問題がないように調整して放送に出すのである。

 ニュースというのは起きたことをフォローする傾向があるが、番組はまず企画が先行するわけで、それを採用するかふるいにかけるという大切な作業がある。

 三重県には伊勢神宮があり、総理大臣は必ず年頭に参拝して記者会見するし、天皇も即位すれば報告に来る。人口や工業出荷額の割には格の高い県だが、NHKの放送局としては、県全体で見てもらえず、格が高いとは言えなかった。

 事件事故もあまりなく、ニュースのネタに困った。鳥羽湾の菅島というところに自衛隊のC1輸送機が2機墜落して、全員死亡する事故があった。悪天候で視界がきかなかったので飛行高度が島の山の標高より低かったことに気づかず、多分水平に山腹に突っ込んだのだろう。前線デスクとして、警察担当の記者と2人だけで島に渡り、彼が現場リポートをするのをサポートした。2機分の機体の残骸と遺体の散乱している島にいるより、六本木(当時の防衛庁のあったところ)でないと何があったのか把握できなかった。雨が続いてびしょ濡れになり、上位局の名古屋のニュースデスクが着替えのパンツとシャツを持ってきてくれた。同期の記者だったが、実によく気の付く奴だった。

 松坂の奥で集中豪雨の際に土石流が発生し数軒の家が流され、数人の死者行方不明が出た。川の上流が現場であり、川岸の道が川の増水で不通になったため、徒歩でしか行けない事態になった。組合員ではあるが専門記者の吾輩がカメラマンと現場に行けと指令が来た。2時間ほど歩いて現場に到達した。カメラで撮影することがメインで、まもなく引き返したが、本当にくたびれた。ニュースセンター9時用にリポートを収録したが、同期のディレクターが駄目だという。くたびれて元気がなかったようだ。行き途中上空をゆくヘリコプターを見て、何故竹槍で戦争をするマネを自分がしなくてはいけないんだとハラがたったことを思い出し、怒ったようにしゃべったら、そのディレクターがOKと言った。

 休みにはあちらこちらに行った。伊勢神宮に行くと、赤福を食った。苦いお茶もおいしかった。車で行くと奈良も近かった。

 職場のレクレーションでは瀞八丁や新宮。京都になすで有名な料亭(渡月橋の近く)にも行った。四日市通信部の記者が宝塚のファンで,宝塚の舞台も見た。東京宝塚劇場に行く気にはならない。貴重な経験だった。

 娘がアメリカにホームステイしたお礼奉公ということで、アメリカ西海岸の老夫婦のホームステイのホストをしたこともある。夫は中学か高校のカウンセラーをしていた人で、「津に来る前にステイした家で主人が陽気になったり陰気になったり極端に変わった」というので和英辞書で躁鬱賞を調べ、そこを指して、「これか?」と言ったらそうだという。それから向こうは英和辞書、当方は和英辞書を手に持って会話した。

両方の奥方は余りしゃべらなかった、向こうの奥さんは亭主に英語で言って通訳させて済ましていた。当方の奥さんはアルカイックスマイルでごまかしていた。亭主は,商品の値段に非常に興味があり、スーパーなどに行くと野菜などの値段を盛んに訊き、ドルに換算するといくらになるかをせっせと計算するのだった。おかげで、鳥羽だったか、海女が潜水するところを、VIP用の席で見学できた。

 新人記者の時、大分県警の捜査2課長に自分の仕事で一番大切なことは何だと思うかと訊いた。彼は中央大学法学部の出身、警視庁で巡査をした後、三級職の試験に合格して警察のエリートコースに参入した男で捜査2課のベテランは、「彼は取り調べでうまく調書を書くことができないだろう」と反発していた。ここでいう調書とは、想定した犯罪行為に沿って構成要件を満たすように作成し、裁判で公判維持できるように仕立てられたものをいうのである。新任の捜査2課長は、「それは樹立判断だネ」と言った。内偵か告発かでキャッチした容疑事実が立件できるかどうかの判断だというのである。記者の場合も同じである。これがニュースになるのかどうかの判断が勝負なのだ。新人の頃は警察を回る。彼らが、こっそり騒いでいればニュースバリューの大きなニュースが隠れていた。記者の経験を積まねばニュースバリューの判断はできない。だから、新人はまず警察取材から始める。経験を積んでくると本能的にニュースバリューの大小は判断できるし、どの程度戦力を振り向けるべきかも分かってくる。しかし、時の流れともにニュースの中身は変化する。昔は、「犬が人を噛んでもニュースでないが、人が犬を噛めばニュースだ」と言われた。しかし、犬は(肉として供される場合は別だが)人の命令に従い任務を果たすか、愛玩用で噛んで危害を加えることは滅多になく、幼児などをかみ殺すことがあれば今は大ニュースになる。ペットとして飼われているものが人間様を殺すなんてもってのほかのことなのである。

 ニュースデスクとは記者が持ってくるネタを見て判断し、ニュースバリュー-によって対応を考えるのが主な任務だった。

 能登はやさしや土までもと言うが、伊勢も優しい人が多かった。グリーンテニスクラブという久居に行く途中の山の中のテニスクラブに入った。西井という医者の夫婦と仲良くなり、その後東京に来てから奥さんが上京したときにあった。彼女は四日市に医者の娘で東京女子大出身だったような気がする。その後、まもなく病気で亡くなった。また、川畑さんとは、NHKのグラウンドでテニスができなくなって入ったテニスクラブであった。夫婦で会員だった。ナショナル電工に勤務していて全国を転勤して歩いたらしい。「NHKの八鍬という人なら長野か津にいなかったか」と訊かれて、以前に同じテニスクラブにいたことが分かった。西井夫妻のことも覚えていた。 日本鋼管の社員もいたようだ、西井先生は内科か小児科だったが、川井先生は外科だった。川井先生も西井夫人も早くなくなった。

 三重県はNHKでは名古屋が中央放送局の中部地方管内だったが、紀伊半島の一部で関西地方のようでもあった。

 中部7局の1局のデスクとして名古屋の会議に出た。3年居た名古屋局だったが、近くのアイガーという名前の店でスパゲッティーのカルボナーラを食べた。名古屋名物の味噌煮込みうどんはあまり好きではなかった。

 津ではよくみんなで松阪の『サルート』だか『サルーテ』とかいう店にスパゲッティーを食べに行った。

 2年たって副部長デスクになった。非組合員になるので名古屋で研修があり、NHKの総医長の医師が講演をした。「肉を沢山食べるようになったので、これからは日本でも大腸がんが増えてくる」という内容だった。それ以来健康診断では、バリウムか内視鏡による大腸検査を続けるようになった。大腸内視鏡検査は下剤で大腸をきれいにするのが大変なのだが、中村総医長の一言は私には大きく響いたのである。