名古屋放送局

 1978年8月、名古屋放送局に転勤。記者としてでなく、TVニュースのコメントだった。記者クラブで取材するのでなく、カメラマンの撮影したフィルムをフィルム編集の担当者(高卒が多かった)が編集し、それに合わせて、記者の書いた原稿を貼り付けてアナウンサーに読ませる原稿に仕上げる仕事である。そして、TVニュースの放送の時は、副調整室に座ってアナウンサーや技術職員にQ(合図)を出して、放送を送出するのである。取材に対して編集ということになるが、原稿はニュースデスクが編集するので、その範囲内で映像に合わせるだけで、軽い立場なのだ。内示された時、懲罰を受けたような気がして送別会に出るのを拒否した。

 毎日、放送局に行くのは初めてだった。仕事はカメラマンの撮影したフィルムが現像されないと始まらない。放送時間に合わせて数回しか現像しないので時間が余った。放送局の中庭にテニスコートみたいなものがあって、運転手さんがテニスをしていた。暇な時は中庭でテニスばかりしていた。よく上司に怒られなかったものだ。苦々しく思っていたかもしれないが、何も言われなかった。ふてくされていた心情が哀れだったのかもしれない。記者クラブにいた時は麻雀ばかりしていたが、これは上司には見えない。彼らも、記者の時はそうしてきたのだ。初任地の時、「記者はヤクザみたいなものだ」と言って、2年先輩の記者からこっぴどく叱られたが、定時出勤定時退社の普通のサラリ-マンとは、記者はちょっと違う人種なのだ。

 あまりにふてくされていたからか、政治部にいた関係で選挙班の事務局を担当されられた。名古屋放送局は、JOCKがコールサイン。AKが東京、BKが大阪、全国で3番目の放送局だった。当時は中央放送局と言って、静岡、三重、岐阜、富山、石川、福井と地元の愛知の7県が管内だった。選挙の報道はNHKにとって災害報道とともに非常に重要なもので、衆参の国会議員選挙があるときは徹底的に準備作業をした。立候補予想者や選挙情勢の取材に力を入れ、開票速報の際に当選確実を素早く確実に出せるよう必死で頑張ったものだ。

 こうした取材を抜かりなく行うため、本部(東京)から、しょっちゅう調査依頼や連絡が流れてきた。それは、まず中央放送局に流れてきて、それを各県の放送局に流す、そして調査依頼の回答は中央放送局でまとめて東京に送るのである。それには、締め切りがあるがそれより前に中央放送局の締め切りを設定し、各放送局に報告してもらった。

 寮は瑞穂区田辺通にあって、近くに瑞穂競技場や桜のきれいな山崎川があった。そこに大きな屋敷があり西川鯉三郎が住んでいた。長男は瑞穂競技場のラグビースクールに通っていたが、ボクの転勤で途中でやめた。

休日は守山区志段味にあったテニスコートに通った。報道部だけでなく、色んなセクションの人とプレイをした。職場でやっていた運転手さん、農水のディレクター、アナウンサー。中林さんというアナウンサーとよく、そばを食べに行った。必ず蕎麦湯をたっぷり飲んだ。それでおなかがいっぱいになった。彼から湯桶(ゆとう)よみというカテゴリーを教わった。重箱読みの反対である。当時は、職場の親睦を強化するため、レクレーションという制度があり、一泊二日の休みをとってグループで旅行した。テニスをするため岐阜県に行ったりした。

 昼飯はテレビ塔の下のセントラルパークで食べた。(加藤登紀子の父親が経営者ときいたような気がする)ロシア料理のレストランでボルシチやピロシキを食べた。夜はライオンというビアホールに行った。

麻雀をした雀荘はCKという名前がついていたが、JOCKのCKでなく、オーナーが片岡千恵蔵だかだということだった。時々、背の低い顔の長い老人が麻雀をしていて、それが千恵蔵だと言われたが、本人ですかと確かめたことはない。林家木久蔵なら、「そんな馬鹿な、もったいない」といっただろう。東京から大切なお客さんが来ると、いば昇という店にひつまぶしを食べに行った。たまにボクもお相伴して食べることができた。自分のカネで行くときもあったが、「さいごに、茶漬けにするのだ」と偉そうに食べ方を講釈する記者の後輩がいて、癪に障った。スパゲッティの店に行くと、並の他、1.2・1.5・1.8と何段階かの大盛りがあり、親切といえば親切なのだが、営業精神も旺盛だった。

 TVコメントを2年やったら、部内異動でまた記者になった。愛知県政クラブを担当した。

 県会議員とゴルフをしたこともある。ドッグレッグのコースで、打ったボールが極端にスライスしグリーンにのって、バーディになったこともある。しかし、殆どはショットをコントロールできなかった。

 県政記者は1年間だった。仲谷さんという知事で、自治省採用で、桑原幹根という大物知事の時、見込まれて後継者となり当選した。奥さんは桑原氏の秘書だった。知事公舎のコンクリートの部分でよくテニスをした。相手は運転手の職員、こちらは他の社の記者か秘書課の職員か覚えていない。渡辺といったか、とても強く、こちらが頑張っても知事のペアが勝つのでご機嫌だった。彼はその後自殺した。原因はわからない。気の弱い人だったのだろう。

 1964年に東京でオリンピックが開かれたが、夢よもう一度ということで、名古屋が夏のオリンピックに立候補した。これは名古屋市が主体だったが、県政キャップのボクが同行取材しろということになった。

行ってみたら、CBCのロンドン特派員(JNN系列)とNHK名古屋放送局のボクの二人だけが同行記者だった。パリについて、スイスのローザンヌに行き、

ドイツのデュッセルドルフでIOC委員に投票を依頼し、バーデン・バーデンという温泉地にも行った。

東海銀行の三宅という頭取が名古屋財界を代表して同行しており、東海銀行の現地スタッフがいろいろ手配してくれた。レストランでフランス料理を食べたが、愛知県を代表の鈴木礼二副知事は、「オニオンスープを飲みたい」と言った。東海銀行の世話係は、「味が強すぎて、その後の料理の味がわからなくなる。おやめなさい」と盛んに諌めるのだが、副知事はいうことをきかなかった。県庁では、“れいさま”と知事より人気があった。仲谷さんはおつにすましたところがあり、村夫子然とした鈴木さんのほうがとっつきやすかった。彼も自治省採用組だった。彼は後に知事になった。記者を味方につけようとしたのか、彼に誘われてゴルフをしたこともある。

当時、磯村尚徳はヨーロッパ総局長でパリにいた。セーヌ川の左岸のレストランでランチかディナーをごちそうになった。記者は取材が一番だと思っていたボクは、NCナインで人気のあった彼は本当の記者だと思っていなかったので、「あんたが記者を駄目にした」とつっかかった。

 ローザンヌでは持っていったカメラで、立候補の書類をIOCに提出する本山名古屋市長を撮影した。これをスイステレビで現像し、記者リポートをする我輩の音声入りの動画とともに、現地の若い女性が編集して東京に伝送した。女性は日本語がわからないので、乗り換えるところは、言葉の切れ目と全く合っていなかった。ジュネーブの支局長は萩野さんという先輩で、

よく世話をしてくれた。支局の車はランドローバーのジープのような大きな車で、運転しにくいので、もっぱらアルジェリア人の助手に運転させているとこぼしていた。前任者が木村太郎で、雪の降るスイスではこれでなくては駄目だと強く主張したのだそうだ。

 ジュネーブの旧市街は美しかった。ジャン・ジャック・ルソーが出てくるような気がした。

 県議会を取材している時、民社党の幹事長に議事堂で話を聞こうとしたら当然逃げ出した。微妙な段階ではなしたくなかったのである。走って追いかけコーナーになっているところに追い詰めたら、「しゃべるから、追いかけるのをやめて!!実は心臓のペースメーカーをつけているんだ」と告白した。新人の頃、朝日の大森くんと遠洋漁業で遭難した家族の家に行って遭難者の顔写真を借りる際、「自分の家族なら絶対に協力しないよナ」と言い合った事がある。当時は、メディアスクラムなどという言葉はなかった。マスコミは第4の権力だった。僕らの鼻息は荒かった。

 県政記者になった時、社会部や政治部にボクより長くいた同期の記者はデスクになっていた。ボクも泊まりの時はデスク扱いで初動の判断をせざるをえなかった。金城大学の女子学生が誘拐される事件があり、県警の発表で木曽三川のどこかの川の下流で女性の遺体が発見されたと泊まりの勤務中に連絡が来た時、すぐにそれをTV画面にスーパーし、取材スタッフに連絡した。社内的には褒められた。結果的にそれが誘拐の被害者だった。

 1981年6月、隣の三重県の津放送局のデスクに異動した。大分、政治部、金沢、名古屋の4箇所で通算16年の取材記者生活は終わりを告げた。